2019年11月10日日曜日

除籍されたハイデガーとマン、影絵と対座し目が点に

四十三年ぶりに、駒場キャンバス(東大教養学部)を訪問した。一九七三年当時は時計台のある正門校舎の背景は青空のみ、今のように不釣り合いな高層建築の校舎はなかった。ドイツ語研究所部門はその十一階にあり、いざ訪ねてみると、重複図書の都合により「除籍された」ハイデガーとマンの古書(ドイツ語研究文献)などが机の上に山積み状態、中でも、アルフレッド・イェーガーの『神、もう一度マルティン・ハイデガー』と、アンナ・ヘーラースベルク・ヴェンドリナーの『神不在の神秘思想‐トーマス・マンの解釈』(私訳)が目に留まり、とっさに鷲摑み。いかにも、影の国でハイデガーとマンに対座し、駒場で出迎えられているも同然の感触を得て、思わず目が点になる。存在と時間は、その都度のわたしで有ることのタイミング次第、まるで古書の研究課題を委託され、「頼むぞ」と言われているかのようで、全身に衝撃が走る。
本郷キャンバスでは九月から、宮田眞治先生のドイツ語原典講読演習(トーマス・マンの『ヴェニスに死す』)に客人として参加している。偶然にしては繋がりが揃いすぎて、驚き怪しんでいる。理性と歴史の真理探究は堂々巡りして存在の忘却に陥るから、既存の存在論を解体するにしても、事実性の解釈課題として内存在に燻り続ける火種は消し難い、神を抜きにしては、ハイデガーのダス・マン(非本来的実存)もトーマス・マンの壁に映じる影絵作品(無の世界)も語れない。
追記:昨日の11月9日は、一九八九年にベルリンの壁が崩壊して三十年目の節目となる、「壁観」再考の機運となってほしい。詳細は別途に譲る。
注:タイトルのキーワードGottesferneは「神への遠さ」、 Gottesnäheの「神への近さ」への反語。神話的表象を避けて、あえて「神不在」と訳出しておいた。『近さと遠さ―禅への途上』(大島淑子)が参考になる。11月18日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), 理解社会学研究所所長、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員、

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