2019年12月8日日曜日

ポピュリズムの喧騒から一歩退いて考える

朝日新聞11月19日付けの朝刊の「天声人語」に、米国の政治学者ヤシャ・モンク氏の話が出て話題となっている。ポピュリズム(大衆迎合主義、衆愚政治)の危険性を訴え続けているモンク氏は、来日時のシンポジウムで問題発言、「多くの国を訪れましたが、ポピュリズムの台頭が見られない国に来たのは初めてです」と述べたという。
事の真相はともかく、欧米型の自由民主主義世界の凋落に伴い、中国型の非民主主義国家の台頭による資本主義経済基盤の奪取が係わること、グローバル化に伴う経済覇権をめぐり議論は幾重にも捻じれて複雑怪奇な論争になっている。自称ポピュリスト、れいわの山本太郎氏の話はさておき、日本では政党レベルのポピュリズムになっていないとの指摘がおそらく正しい。今はとりあえず、その定義から始めよう。
ポピュリズムは政治用語で平民主義、ラテン語のポピュラス(原意:奴隷制の時代に「ローマ市民権を有する者」)が元になっている(ひと昔、同名のゲームもあったね)。通常アンチ・エリーティズム(反エリート主義)の名で知られる。政策論を棚上げにして民衆にすり寄り、選挙目当てに大衆の好みに迎合すると衆愚政治だと揶揄されることに。
二十世紀初頭のイタリヤのファシズムやドイツのナチズムも然り、高い失業率に悩む大衆の不満を吸い上げ、雄弁なプロパガンダで政権奪取したケース。アメリカ合衆国では、マッカーシズムやティーパーティー運動、アメリカ・ファーストのトランプ政権を例に挙げる人も多い。日本では、大衆の人気を煽るポピュリズムより、寡頭制のオリガールキが疑われるので、議論の詳細は別途に譲る。
モンク氏の発言は、一見したところ、欧米に典型的なポピュリズムの傾向が日本にはないと、直感したことを述べたに過ぎない。影では、日本の自由民権運動の未熟さ、自由を看板とする民主主義理念のいい加減さ、変化を好まない若い世代の政治的無関心が、ポピュリズムの土壌を育まなかった・今もニーズを生まず論議を不毛にしていると指摘する声もある。寡頭制が疑われる理由もそこにある。以下は次号にて、エリーティズムについて、ポピュリズムとの対比で考える。
12月11日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), 理解社会学研究所所長、法政大学大原社会問題研究所嘱託研究員、copyright © all reserved 2019.

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