2012年7月13日金曜日

原点に戻ってハイデガーの勉強会(公開講座)

[9月30日更新]
 五月のプラハ講演の後いろいろと考えた末に、十年来の研究活動の発端となった原点に立ち返り、本腰でハイデガーの勉強会(公開講座)を立ち上げることにしました。フッサールやシェーラーと対峙する中で培われた初期ハイデガーの作品を一から読み直し、「公共的存在」の義を質したいと存じます。それは不安のあまりマスクして生きる非本来的?実存の仕様、匿名のヒトで有ること(Das-Man-ist)の意味解明につながることです。フッサールやシューラーに対するハイデガーの批判には屈折した思いがあるとしても、解明には心理学的でなく理解社会学的な分析手順を踏みます。関心のある諸君の積極的な参加を募ります。
 初回から数回は、大島淑子先生の『禅‐別様に考える?』(Zen - anders denken? Zugleich ein Versuch über Heidegger und Zen)を原書のドイツ語で読み合わせながら、本題に入ります。
  第三日曜日の午後7時より、場所は休日で公民館が使えないので、さしあたり東武伊勢崎線(東京スカイツリーライン)松原団地駅前のカフェーブルボン(駅の東口から直進して50m先左)にします。参加費無料です。おいしいフランス?コーヒーはプレゼント(初回は7月15日、第二回は8月19日...)

追記:第三回以降は、場所が北千住に変更されました。詳細は、左の欄にある Events a la cartes(各種イベント)でご参照ください。

Shigfried Mayer

2012年7月10日火曜日

真にアノニマス(匿名者)であることの権利と法意識

Über das wahre Recht, anonymous zu sein 
[7月13日(金)更新] 
 アノニマスとは、匿名で勝手なことを言い放題で、根拠のはっきりしない情報(暴露文書)をネットに書き込み垂れ流す、無責任な困ったヒトたちという悪い印象があるようですが、そういった評判は表面的で本来の義を逸しています。真にアノニマスで有るということは、古来探し求められた自由人の境地、名前を伏せる・自分を隠す仕方で疑義を申し立てる。何を疑い抗議するにしても、「法」を無視しては成り立ちません。敢えてアノニーム(無名、名無し)で有ることを自らに欲するのは、形無き法(ダルマ)に学び公共的善に仕える目的で為されること、官僚依存を批判するにしても名を捨て実を取るにしても、己を無とし「載道の器」として生きる覚悟(公共的正義、諒解されてある存在への注視)が必要です。それは、心身ともにあらゆる囚われから解き放たれた人だけに許されること、真実を知る権利と情報操作に対する発言権・抵抗権を、名を捨て自己責任に於いて遂行することですね。これを言い換えると、自由で有ることの(不可能な可能性に係わるのだという)「諒解」に基づくゲマインシャフト行為です。未だそうでないのにも拘わらず、自由人として期待され予期されること(他者の反応)に準拠して振舞う際に、妥当な蓋然性が有ることの認識が共有されています。
 それは両サイドで、常に悪用される危険性を孕んでいます。名を伏せてする社会的自己の発信行為は、情報源を操作し法制度を盾にする立場に対しては非力だから、テロリズムのように暴走しがちです。公共的存在の権利、「公権」とは何か、今後ブログでは理解社会学的に論じ明らかにしていきたい。
 真にアノニマスで有ることは、不法なダウンロードが規制されることに反感を抱いてしきりとネット攻撃を仕掛ける、気に食わないからウイルスを送りつけて揺さぶる、そういった愉快犯的な単独の無法行為や怪しげな国家的組織犯罪とはおよそ無縁(のはず)です。やはり、発信者が自ら名乗らない限り、実のところ線引きは難しいですね。ハッカーがクラッカーではないように、真にアノニマスで有ることは預言者的「自己否定」の極みですから、自由人で有る「かのように」見せる見事なマスクと、「諒解関係」に基づく経験妥当な生の技法が必要となるでしょう。公共的善はもちろんのこと、アノニマスで有ることの権利を保障する法への意識を高め、発言の「正当性」を内外に明らかにしないと、だれも納得してくれません。共鳴を得るには、魅せる何かが必要です。
これはあくまで私見です。反論があれば傾聴します。どうぞ…

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年6月15日金曜日

必要とされる誇り、必要とされない悲しみを越えて

Über die trübselige Lage der notwendigen hinaus!
[6月16日(土)更新]
 目下の仕事がない(希望する職場が見つからない)ことが、直ちに生きる意味がないことになるのでしょうか?就職先が決まると自分が社会に「必要とされている」と感じる、就職活動(Stellenjagt)がうまくいかない、一度や二度の就活失敗で、自分は「必要とされてない」んだと感じ(思い込み)、「必要とされる誇りを失う」。その場合の誇りって、なんでしょうね。面目が立たない?恥ずかしい?だから、死んだほうがましだ・楽だとつい思ってしまうのはシンプリズム(短絡)だとしても、それは(基本的人権の要件である)働く「人の尊厳」(Menschenwürde)にかかわること、他人事のように軽々しくは扱えません(カントの『道徳形而上学原論』は必読)。
 そこで、「必要とされる」とは何か、考えてみましょう。必要性は経営上の必然性(Notwendigkeit)の話ですから、さしあたり即戦力としての能力が問われます。個々人の可能性(Möglichkeit)については参照される程度で、話題にはなっても決め手とはなりません。あくまで道具として会社に必要とされるのであって、君自身の人格性が目的として取り扱われることは、残念ながらほとんどありませんね。
 さしあたりの、実践的なアドバイスを三つ。第一に、リーマンショック以来の金融不安に揺れる複雑性(complexity)の世界事情を見極めること。求人にも社会的ニーズというものがあって、それに君自身が応えられる要件を満たしているかいないか、しっかりと自己吟味すること。第二に、検索の条件を変えてみること。例えば、皆が殺到する第三次産業(サービス業)に拘っていないかどうか、希望職種や都市部への拘りを捨てて全国津々浦々を見渡せば、意外と見つかる可能性はあります。その為には、探し当てるまであきらめないことと待つこと(希望の哲学)を同時に学ぶ必要もあるでしょう。第三に、どうしても見つからなければ、大学に残って勉学を続けてもいい(四年で卒業する必要はありません)。或いはいっそのこと、志をひとつにできる友を探し出して、思い切って「起業する」こと(entreprendre, unternehmen)をお勧めします。必要性云々より、自分の可能性を信じて起業することには、その点で重要な意味があります。
 人生はチャレンジ(Herausforderung)です。多くの先人たち(君たちの親の世代)は、戦後の廃墟の中から仕事を立ち上げ、無から始めることができたのです。君たちにできないわけがない、そうでしょう?少し楽な生き方に慣れ親しみすぎて、多少の苦労は避けがたいでしょうが、また石ころや茨や雑草に覆われてすぐには見えないとしても、君が目指す峠への「道」は確かに有るのです。命を粗末に扱うことだけは止めましょう。明日の世界が君(の可能性)を期待し必要としている、君はなくてならない人だから・・・ 

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年5月29日火曜日

内憂外患の友に、何をそんなに急いで終わらせたいの?

Über den beeilten Selbstmord, oder die Kunst, mit dem Nichts anzufangen.
【6月5日(火)更新、改題】
 寄せては返す波の飛沫(時は命の働き)浴びるのを内に感じながら、色めき立ち其処に突っ立った侭でどうするの?波に攫われまいと足踏ん張って、帰らぬ人となったあの子の分まで生きなくちゃと、自然の疾風怒濤に逆らって一人息巻いてどうするの?人類(ヒト)が憎いから自然(モノ)は天災地変を起こすわけでないことを承知しているのに、(権力とカネに物言わせ)突っ張り合ってどうするの?力任せでは到底自然の勢いに勝てない、闇勢力に力で叶わないと分かっているのに、壁に頭をぶつけてどうするの?就職難の今がヒトとして生きる「道」の初めに過ぎないのに、「待つ」ことをしないでどうするの?自分の壁となって働くモノとどう向き合うか、内憂外患で八方塞がりに見える今が、「無で始める」生の技法を学ぶまたとないシャンスなのに、何をそんなに急いで終わらせたいの?…
 「無で始める」禅の話が難しい?なら、この工房で一緒に茶を啜りながら、安心して壁観するダルマを尋ね、平常底で自分と向き合う仕方を学んでみませんか。目線を変え、「神もしくは自然」(スピノザ)について語り合うのもいい。君の捜し物が何か知りたいな。自分の捜し物が分からないか、探しても見つからなかったのなら、その時の挫折感或いは失敗談を聞かせて欲しいな。ブログで公開されるのが嫌なら、別途にメールにてお伺いしてもいい。自ら語る(告白する)ことで、大抵は癒されるか解決します。ただ社会学的には、自分とは内外のゲマインシャフト(共同体)を意識したスタンスなので、歯切れのいい人格理論とは異なり、一筋縄ではいきませんが...だって仮初めにも、苦渋の自他関係(負の連鎖)を終わらせるのが君の目的であって、決して生命の営みそれ自体を絶つことではないはず、でしょう?一度は自殺を考えてことがある諸君の、率直な意見を聞きたい。


Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku Tokyo

2012年5月14日月曜日

重要なお知らせ

Wichtige Nachrichten
  ヨーロッパでの講演旅行のため、しばらくお休みいたします。当理解社会学研究所のブログ閲覧および書き込みはご自由にどうぞ。
次回のブログ主題として、就職活動失敗に端を発する青年たちの「自殺」の問題を取り上げる予定です。その準備を兼ねて、同世代人である諸君の気持を伺っておきたい。死ぬほど辛い・死ぬほうがましだと君たちが思っている、或いは一度は思ったことがあるとすれば、その理由を述べてください。返答は十日後を予定。

Shigfried Mayer