2016年12月3日土曜日

沈黙の大衆(サイレント・マジョリティー)の賭け

 アメリカ合衆国の次期大統領にトランプ氏が選ばれた背景に、「沈黙の大衆」、サイレント・マジョリティーの賭けが働いていたことは間違いない。経済的手腕を買ったのだろうか。それでも、移民系を排除する排外主義的政策に懸念は尽きない。シリコンバレーのベンチャー企業は、例外なく移民系の創業者たちである。スティーブ・ジョンズにして然り、グーグルやヤフーを生んだのも、移民系の人々の活力の故である。Succes follows people, not the thechnologyとは、それを物語る。トランプ現象が、アメリカの大国主義的経済復興を夢見るだけであればいずれ破綻しようが、意外な展開もあり得る。国際政治に断定は禁物である。大統領就任後に、一抹の望みではあっても、同氏が変身する可能性を、誰も一概に否定することはできない。錆びくれた鉄の町デトロイト周辺の経済復興に成功するかどうか、シリコンバレーに代わる具体策があるのか、お手並み拝見の試金石となる。
 ということもあり、これを機に、世代を風靡する「現象とは何か」を考えてみるのも悪くない。さしあたり、フッサールの現象学(『イデーン』)を学び直すことから始める。フッサールで物足りないと思えば、シュッツから読み始めてもいい。いずれもドイツ語原文での講読会であるが、「無の現象」を真摯に受け止め、社会学言論の対話課題として捉え直すことが目標である。関心があったら、声をかけてほしい。12月6日(火)更新

 

2016年11月14日月曜日

エヌ・ピー・オー法人、花紐社の立ち上げについて

 ブログサイト「理解社会学の工房」を初めて六年の歳月が経ちました。読者の皆様には心より感謝申し上げます。実は、これに前後して「花紐社」(かちゅうしゃ)というベンチャーを創設していましたが、多忙な研究活動の為に休眠状態でした。この度長年の研究論文が完成したこともあり、七年目に当たる次年度に、この花紐社を本格的なエヌ・ピー・オー(NPO)法人として登録し活性化することにしました。設立目的は、世代交代を支援し円滑にすることです。無牧で困っている教会、後継者・代務者がいなくて困っている組織、立ち往生のリスクに晒されている寺社等を登録していただき、ご相談に乗ることに致します。
まずは情報をお寄せください。思想・信条・宗派・宗門のいずれを問わず、相談を受け付けます。何ができるかは、何を必要とされるのか、それ次第です。応援説教や宗教講話でお助けすることも出来ます。教会や寺社が閉鎖・廃屋に追い込まれる前に、皆で知恵を出して協力し、明日の世代を担う子供たちの為に有用なコミュニティーまた生涯学習の場所として再生できるよう努めていく所存です。必要となる協力者の申し出があれば歓迎します。また資材の寄付や資金援助を受け賜わることができれば光栄です。11月15日更新。
 理解社会学研究所長、花紐社代表、宮村重徳

2016年11月9日水曜日

若者たちの夢を打ち砕いた最悪のシナリオ、どう向き合うの?

  ドナルド・トランプ氏のアメリカ合衆国大統領選出で、誰が喜んでいるのか知りたいものだ。少なくとも若者たちではない。錆びた鉄の町デトロイトを中心とした失業者達を含め、白人を中心とした没落組、壮年以上の人々が彼に投票したと聞いている。彼に何等かの変革への望みをかけた気持ちはわかる。しかし、政治音痴の彼にである。明日を担う若者たちの失意は隠せない。多民族国家の合衆国が今後どうなるのか成り行きを見守る他ないが、こんなにも見通しが立たない選挙結果を見るのは初めてだ。明日の見通しが立たないということは、正直に言って怖い話である。新大陸に夢を託したハンナ・アーレントの政治哲学が、不毛な荒れ地に晒されて忘れ去られようとしている。残念だが、アメリカンドリームの化けの皮がはげ落ちるのを見守る他ない。

2016年11月1日火曜日

久松愼一『無の成就』の独訳者・平田高士氏を悼む

 僭越ながら、一言コメントすることをお許しください。Die Fülle des Nichtsを「無の無量さ」と訳したのでは誰も共感しません。久松眞一先生の「東洋的無の性格」は、「無の成就」でこそ驚くのです。1975年頃だと記憶していますが、指導教授のユンゲルに久松愼一先生のドイツ語訳本を私が誕生日のプレゼントに差し上げたところ、「ダス・イスト・アーバー・ウンメークリッヒ」と叫んでおいででした。邦訳すると、「無が成就する?そんなことはあり得ない、不可能だ!」となります。久松先生の御本を平田高士氏か共訳者のJohanna Fischerが die Fülle des Nichts 訳出されたとき、欧米人の驚きを予想してそのように訳されたのではないでしょうか。言葉は存在の家(ハイデガー)、語ったことが成就すると言えば、誰でも理解できます。しかし、語らなかったこと、そもそも無いもの、無なるものが成就するなど考えられないからでしょう。驚嘆し唖然とする他ない。そうではないでしょうか?
 訳者の平田高士氏が2006年に亡くなられたとのこと、FASサイトの常盤義伸先生のご報告で知りました。遅ればせながら、心よりご冥福をお祈りいたします。11月3日(木)更新、Shigfried Mayer(宮村重徳)

2016年10月16日日曜日

「心」は有るの?それとも無いの?よく考えてみると

「心」は有るのか。言語派社会学者の橋爪大三郎は無いと云う。では、苦労ばかりの人生に意味がないというとき、その意味なるモノは何処かにあるのか?リトマス紙で試してみても、何の色も検出されない。困ったことに無色透明である。生きると云うことが意味あることだとして、その「意味の意味性」を実証しようとしても、所詮無理難題で無駄なことではないか。確かめようが無い。心についても同じことが言える。心が無ければ苦労しない。「存在する意味」など見える代物でない。見えないものを見る、それが宗教また哲学の課題だろう。社会学でも変わりない。意味の意味性は、実体性が有るのか無いのか確認を待たない。それ以前の問題だろう。言語ゲームの解説ではいずれ行き詰まる。我が身で有るの意味は何か、その如何にを考えることから一切は始まる。そうではないか。意味は有るモノでなく、共に考えて一体を為すモノ、ゲマインシャフト(共同体)の構成的要件である。論理実証主義者のお喋りは程々にして貰いたい。読む限り、キリスト教と仏教の基本認識に間違いが多くある。橋詰大三郎『「心」はあるのか』(ちくま新書)を読んでの感想文。