僭越ながら、一言コメントすることをお許しください。Die
Fülle des Nichtsを「無の無量さ」と訳したのでは誰も共感しません。久松眞一先生の「東洋的無の性格」は、「無の成就」でこそ驚くのです。1975年頃だと記憶していますが、指導教授のユンゲルに久松愼一先生のドイツ語訳本を私が誕生日のプレゼントに差し上げたところ、「ダス・イスト・アーバー・ウンメークリッヒ」と叫んでおいででした。邦訳すると、「無が成就する?そんなことはあり得ない、不可能だ!」となります。久松先生の御本を平田高士氏か共訳者のJohanna Fischerが die Fülle des Nichts と訳出されたとき、欧米人の驚きを予想してそのように訳されたのではないでしょうか。言葉は存在の家(ハイデガー)、語ったことが成就すると言えば、誰でも理解できます。しかし、語らなかったこと、そもそも無いもの、無なるものが成就するなど考えられないからでしょう。驚嘆し唖然とする他ない。そうではないでしょうか?
訳者の平田高士氏が2006年に亡くなられたとのこと、FASサイトの常盤義伸先生のご報告で知りました。遅ればせながら、心よりご冥福をお祈りいたします。11月3日(木)更新、Shigfried Mayer(宮村重徳)
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