2016年9月26日月曜日

ディスクレパンシーとイクワリティーの狭間で考える

説明しても理解できない、理解しても説明できない。迷走する台風予報の話じゃないよ。考えようとすると、ジレンマに陥るからいやだよね。でも、スマートにしか考えないでいる(ショートカットで済ますことに慣れてしまう)と、砂を手づかみにするときのように、当たり前の現実が捨象(しゃしょう)されてするりと落ちこぼれ。後に何も残らない。話が違うと焦っても、いつの間にか説明が追い付かず、理解するどころの話ではなくなる。そうでしょう?近代人が陥ったディスクレパンシーのぶい・モードは、そろそろおさらばにしたいね。
どう考えていいかわからない?さあ、スマートフォンの電源切って、何もない壁の前に座って自分に問いかけてごらん。俺って、何してんだろうって。説明しても理解できない、理解しても説明できない何かが見えて来たらしめたもの。
うん、即答とはいかないね。漢字平仮名交じりで「さらば、格差(ディスクレパンシー)を勝利方程式にする社会よ」ではどうかな。周りのみんなと同じでは退屈でしょう。正直に、あるがままを生きたらいい。でも、機会平等(イクワリティー)を模索し、皆と和合して生きる工夫をしないと、独りよがりになる。考えるって大事なことだよ。
10月9日(日)更新。
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2016, the Institute for the Interpretative Sociology Tokyo


2016年9月11日日曜日

生きるも働くも甲斐あればこそ、ずばり「意味の意味性」次第だね

早稲田大学の大隈講堂で催された第75回日本宗教学会の公開講演、上智大学名誉教授クラウス・リーゼンフーバーの「意味への問い」に、久々の爽やかな共感を覚えた。ぼそぼそとお話になるので聴きとるのが大変だったが、「意味の意味性」としてあるものが存在と繋がる。存在そのものに意味があり、それが一方で宗教の根幹に係わり、他方で哲学の根本問題にも触れる。意味のあるところから考えることが始まるのだと言われる。ずばりその通りだと思う。いつか以前に、大島淑子先生が「指の指性」で同様のことを仰っていたことを思い出す。ハイデガー卒業など以ての外、読み直しは必至だね。
 もう一つの発見は、帝京大学濱田陽氏の「文化の時計」としての「十二支考」論。野生の思考として南方熊楠の十二支考を考察される。内に蓄えられた曖昧な記憶層が、鍬でぐいぐい耕し直される体験をした。リーガロイヤルホテルでの懇談会のご馳走よりも、ずっと味わい深い話の連続に感謝あるのみ。私が発表した「ダルマの壁観と譬喩解釈-宗教社会学言論考」は、学術大会に一輪の花を添える程度に過ぎないが、研究成果には大いに満足している、今夜はぐっすりと眠れそう。
9月12日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳)

2016年8月29日月曜日

ひょっとしてグー、じっと見てパーの夏祭り、終わりにしたいね

   おませだね、冴えてるね、子どもたち、驚くようなことを口にする、何事も平気で問うて憚らない。ポケモンGOとなると、子どもも大人もない。夜空を彩る打ち上げ花火に、見とれる世代の違いを感じさせない。ひょっとしてグー、じっと見てパーの夏祭りで話を終わらぬよう、しっかりと心の緒を締めないと、ねぇ、タモリさん。
  僕たちも大人の振りを捨てて、子ども心を取り戻しもっと素直になりたい。初めて問うことであるかのように、憚らずに自分に問いたい。自分に対するように、ダルマさんに倣い、万人に対する開かれた、実りある対話の秋を願いたい。

2016年8月15日月曜日

ルールがあってこその国際平和の祭典でしょう?

終戦でない、敗戦のこの日(815日)に我思う。オリンピックの競技に感動するのは、仮初でも、ルールに徹した競技を皆が実践しているからだ。国際政治社会にルールがあっても、ルールを守るというのはうわべだけで、だれも本気で守ろうとしない。それはなぜか。国際ルールを無視した利権主義に覇権主義の争いが相次ぎ、誰もが辟易していよう。政治家たちがこれでは、いつになっても国民主権の平和の祭典が祝えない。確かに、諸国間での諒解規則は曖昧だが、互いの期待を読みあい先取りすることで、了了常知の信頼関係を築けるチャンスと蓋然性が、ほら此処其処に事実存在するではないですか。
「自分にしてもらいたいと思うことは、何でも他の人にする」だけでいい。これが黄金律と言われる(『マタイによる福音書』712節参照)。二度と悲惨な戦争を望まない、関係諸国が手を取り合って、諸国民や民族間の融和を図り、国際平和の絆を誓う非戦の祭典が、2020年までにと云わず、次世代を担う子供たちの日常世界に齎されるその日を間近に願いたい。平和の使徒、ダルマの安心壁観を一里塚にすれば、望まれる安楽卿が眼下に見下ろせるようになるでしょう。もう、経済不況を口実に、人間不興への無策は止めにしたいものです。
イスラム諸国とキリスト教国が争う理由など無いのです。集団的自衛権の名目で、自分の利権に拘り、密かに自我を主張する一部の困った人たちを除いてね。
Shigfried Mayer(宮村重徳)

2016年7月22日金曜日

二〇一六年七月現在、研究経過報告

 右手にダルマの『二入四行論』、左手にアーレントの遺稿『精神的生』。取り合わせは偶然ですが、意外な共通点があって面白い。瞑想的生と活動的生をかけて何と解く、その心は精神的生?でしょうか。
 食する暇も惜しみ寝る暇も忘れて、僭越ながら、目下ダルマの『二入四行論長巻子』の訳注書を鋭意執筆中です。日本に戻ってこなかったら、ついぞ取り組むことも無かったであろう課題ですね、感無量です。小鹿が原野を駆け抜けるように、年甲斐もなく、充実した毎日、心が躍動して押さえるのに一苦労です。
 早稲田大学で開催される秋の宗教学会で、「ダルマの壁観と譬喩解釈 -宗教社会学言論考」を発表する予定。その一部成果を紹介できると思います。それから、三月に『独逸学研究』70号に公開したドイツ語論考の正誤表を作成中、次年度に各大学に配布する予定です。
Shigfried Mayer(宮村重徳)