2016年9月11日日曜日

生きるも働くも甲斐あればこそ、ずばり「意味の意味性」次第だね

早稲田大学の大隈講堂で催された第75回日本宗教学会の公開講演、上智大学名誉教授クラウス・リーゼンフーバーの「意味への問い」に、久々の爽やかな共感を覚えた。ぼそぼそとお話になるので聴きとるのが大変だったが、「意味の意味性」としてあるものが存在と繋がる。存在そのものに意味があり、それが一方で宗教の根幹に係わり、他方で哲学の根本問題にも触れる。意味のあるところから考えることが始まるのだと言われる。ずばりその通りだと思う。いつか以前に、大島淑子先生が「指の指性」で同様のことを仰っていたことを思い出す。ハイデガー卒業など以ての外、読み直しは必至だね。
 もう一つの発見は、帝京大学濱田陽氏の「文化の時計」としての「十二支考」論。野生の思考として南方熊楠の十二支考を考察される。内に蓄えられた曖昧な記憶層が、鍬でぐいぐい耕し直される体験をした。リーガロイヤルホテルでの懇談会のご馳走よりも、ずっと味わい深い話の連続に感謝あるのみ。私が発表した「ダルマの壁観と譬喩解釈-宗教社会学言論考」は、学術大会に一輪の花を添える程度に過ぎないが、研究成果には大いに満足している、今夜はぐっすりと眠れそう。
9月12日更新
Shigfried Mayer(宮村重徳)

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