2012年9月4日火曜日

「別様に考える」工夫、存在と場所移動について


Ein willkommener Anlaß, anders zu denken  
[9月7日(金)更新]
昨日今日のスコールは、酷暑に別れを告げ秋の訪れを知らせるサインでしょうか。半ば壊れて送風しか機能しない旧式エアコンで、熱中症にもならずよくぞここまで来れたな~とため息をつく間もなく、なけなしの財布をはたいて新しいエアコンに付け替えた途端の急激な気象変動に、嬉しくもあり(ちぐはぐさ故の)嘆きもあり、波間に浮沈する木の葉のごとき心境でお過ごしの方々も、他に少なくないのではないでしょうか。
さて、前回通知いたしましたハイデガー勉強会(公開講座)の場所を、大学のある松原団地から都心に近い北千住に変更することにしました。JR北千住駅東口のすぐ目の前にあるカフェー・サンローゼ(Café Sunrose)にて、第三日曜日(9月16日、10月21日…)の夕方7時に開催いたします。ハイデガーに関心をお持ちの方・有志ある参加者をお待ち申し上げます。東西世界でなぜ「別様に考える」工夫が必要なのか、時間の許す限り原書を読破し、存在と無の分水嶺にまで分け入って、徹底討論いたしましょう。
追記:ヴェーバー研究会は、これまで通り三郷の理解社会学研究所にて開きます。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年8月26日日曜日

ヴェーバーとハイデガー、補助線を引いてみると

[8月28日(火)更新]
 なぜヴェーバーとハイデガーなのか、二者の繋がりが諸君には不思議かさもなければ不可解ですか?ヴェーバー社会学とハイデガー哲学は、決して無縁ではないのです。フッサールとシェーラーを(後にはサルトルをも)厳しく批判する中で、ハイデガーはむしろ意外にヴェーバーと近いところに立っている。それが私の発見であり実感です。理解と行為という、二つの基礎カテゴリーについて、ここで長々と論うことはしません(詳細は、学会発表でのお楽しみ)。自分を知るも悟るも主観的意味の真理探究、いずれも理解のカテゴリーです。それは見性体験や客観妥当な経験の後付け(ゲマインシャフト行為の要件)を必要とします。二人の繋がりは、補助線を引いてみて初めて分かったこと、「私」で有るところの、それ(エス)を係数とする身体現象学の秘密です。
 今振り返ると、意外なところに接点があった。何度も言ったことで諄いようですが、そのヒントは大島淑子先生の『禅‐別様に考える?ハイデガーと禅についての試論』にあったことが分かります。ハイデガー勉強会(公開講座)で何度も読み返し、当時の講演メモをチェックする内に、そうだったんだと改めて感慨深く思い出しています。迫る「縁」(Bedingt-Entstehen)はこれを拒まず、感謝しつつ受け止めたいものです。

Shigfried Mayer, copyright all reserved, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku


2012年8月9日木曜日

君も名を上げたいの?無名に徹するのは嫌?

【8月10日更新】
 オリンピック選手たちのように、君も名を上げたいの?頑張る自分にご褒美を上げたい?いいでしょう。だれであれ、働いて報われないと嫌だものね。でも、有名病につける即効薬はないからね。撒いた種が芽を出し、花を咲かせ実るまで、待つことが必要でしょう。有名無実に陥って苦しむよりは、しばし有名へのこだわりを捨て、言わば働くモノに徹する、あえて無名(アノニマス)で有るに徹するといい。すると、就職活動で苦しむ君にも、やがて青天霹靂の峠道が目の前に開けるはず。予期しない職場から呼び出され、仕事の縁に恵まれるかどうかは、生成する「存在と時間」の秘密です。待てない自分に負けないこと!

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年7月13日金曜日

原点に戻ってハイデガーの勉強会(公開講座)

[9月30日更新]
 五月のプラハ講演の後いろいろと考えた末に、十年来の研究活動の発端となった原点に立ち返り、本腰でハイデガーの勉強会(公開講座)を立ち上げることにしました。フッサールやシェーラーと対峙する中で培われた初期ハイデガーの作品を一から読み直し、「公共的存在」の義を質したいと存じます。それは不安のあまりマスクして生きる非本来的?実存の仕様、匿名のヒトで有ること(Das-Man-ist)の意味解明につながることです。フッサールやシューラーに対するハイデガーの批判には屈折した思いがあるとしても、解明には心理学的でなく理解社会学的な分析手順を踏みます。関心のある諸君の積極的な参加を募ります。
 初回から数回は、大島淑子先生の『禅‐別様に考える?』(Zen - anders denken? Zugleich ein Versuch über Heidegger und Zen)を原書のドイツ語で読み合わせながら、本題に入ります。
  第三日曜日の午後7時より、場所は休日で公民館が使えないので、さしあたり東武伊勢崎線(東京スカイツリーライン)松原団地駅前のカフェーブルボン(駅の東口から直進して50m先左)にします。参加費無料です。おいしいフランス?コーヒーはプレゼント(初回は7月15日、第二回は8月19日...)

追記:第三回以降は、場所が北千住に変更されました。詳細は、左の欄にある Events a la cartes(各種イベント)でご参照ください。

Shigfried Mayer

2012年7月10日火曜日

真にアノニマス(匿名者)であることの権利と法意識

Über das wahre Recht, anonymous zu sein 
[7月13日(金)更新] 
 アノニマスとは、匿名で勝手なことを言い放題で、根拠のはっきりしない情報(暴露文書)をネットに書き込み垂れ流す、無責任な困ったヒトたちという悪い印象があるようですが、そういった評判は表面的で本来の義を逸しています。真にアノニマスで有るということは、古来探し求められた自由人の境地、名前を伏せる・自分を隠す仕方で疑義を申し立てる。何を疑い抗議するにしても、「法」を無視しては成り立ちません。敢えてアノニーム(無名、名無し)で有ることを自らに欲するのは、形無き法(ダルマ)に学び公共的善に仕える目的で為されること、官僚依存を批判するにしても名を捨て実を取るにしても、己を無とし「載道の器」として生きる覚悟(公共的正義、諒解されてある存在への注視)が必要です。それは、心身ともにあらゆる囚われから解き放たれた人だけに許されること、真実を知る権利と情報操作に対する発言権・抵抗権を、名を捨て自己責任に於いて遂行することですね。これを言い換えると、自由で有ることの(不可能な可能性に係わるのだという)「諒解」に基づくゲマインシャフト行為です。未だそうでないのにも拘わらず、自由人として期待され予期されること(他者の反応)に準拠して振舞う際に、妥当な蓋然性が有ることの認識が共有されています。
 それは両サイドで、常に悪用される危険性を孕んでいます。名を伏せてする社会的自己の発信行為は、情報源を操作し法制度を盾にする立場に対しては非力だから、テロリズムのように暴走しがちです。公共的存在の権利、「公権」とは何か、今後ブログでは理解社会学的に論じ明らかにしていきたい。
 真にアノニマスで有ることは、不法なダウンロードが規制されることに反感を抱いてしきりとネット攻撃を仕掛ける、気に食わないからウイルスを送りつけて揺さぶる、そういった愉快犯的な単独の無法行為や怪しげな国家的組織犯罪とはおよそ無縁(のはず)です。やはり、発信者が自ら名乗らない限り、実のところ線引きは難しいですね。ハッカーがクラッカーではないように、真にアノニマスで有ることは預言者的「自己否定」の極みですから、自由人で有る「かのように」見せる見事なマスクと、「諒解関係」に基づく経験妥当な生の技法が必要となるでしょう。公共的善はもちろんのこと、アノニマスで有ることの権利を保障する法への意識を高め、発言の「正当性」を内外に明らかにしないと、だれも納得してくれません。共鳴を得るには、魅せる何かが必要です。
これはあくまで私見です。反論があれば傾聴します。どうぞ…

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku