2011年2月21日月曜日

社会的自己の造形、「からだ」(身と体)のイメージ

Warum das Leib-sein etwas anders in Frage kommt als den Körper-haben 
一時「身体現象学」(メルロポンティ)という言葉が一世を風靡したことがある。その「身体」と「心身」はどう違うのか。己の「身」や「体」との関係が曖昧の侭に身振り言語が使用される結果、批判が苛め(人格誹謗や罵倒)に変質した、一触即発の危険球(死球)の応酬に走り、国会を初め地方議会に未曾有の混乱を招いている。「理解社会学」を必要とするのは、差し当たりまた大抵は、政治と宗教の世界である。社会学のカテゴリー論に基づいて「社会学言論」を展開する必要性から、日常的な日本語世界での概念使用の実際を吟味し、意味論上の再仕分けをしておく必要がある。
身と体は、心身と身体に置き換えられようか。確かに、どちらも「からだ」である。しかしご存じだろうか、身+体=身体ではない!理由を。漢字の造りからすると、単独で使用される「身」(本体・本人・自分、代名詞で:わたくし)とは異なり、「体」には異字体の「躰」と「體」(いずれも音はタイ)がある。偏の違いにも拘わらず、躰と體は十二部位を総合した具体的な「からだ・かたち・すがた」(+現象を支える本質、動詞で:体験する)で、およその違いは見当が付く(佐藤・濱口編、全訳『漢辞海』、三省堂)。国語関連を詳しく調べてみると、これが意外なことに、「からだ」(体)の原意は、実は首(頭部)のないトルソーのイメージである。世界の東西を問わず、罪人(ざいにん)が晒し首にされた際の、捨てられた胴体部分を指して言われる。「からだ」という読みは、金田一京助編集の『新明解国語辞典』(三省堂)に拠ると、「からだ」は肉体の和語的表現で、「から」の音は亡骸(なきがら)の「から」と同義、これに接語の「だ」を添えたものと考えられている。その「体」に対して「身体」はきわめて新しい用字で、ほとんど「体格」と同義。心身の「心」は身を、身体の「身」は体を修飾する雅語形に過ぎない。「体」は、首また頭と一緒に使用されて「一体」となる。つまり、首また頭が「体」に加えられて初めて、人として「生きた存在」と見なされるように、それなしには「体」は亡骸(なきがら)と同義の「からだ」(死に体)である。その「体」に対して、「身」は「心を包むモノ」として捉えられており、その限りで働くヒトの生きる体である。西洋のように「心(魂)と体」(Seele und Leib)の二元論ではないとしても、古高ドイツ語で知られているように、「身」(Leib)は「生」(Leben)と同じルートにあり、東洋に於ける「心」(心身、化身・法身)を共鳴体とする類似例、参照可能な平行事例として注目されよう。
「身」は話し手である本人が自分を指して言うこと、それも具体的形状もって体をなす(体言する)。金田一編の『新明解』では、身は「人としての権利を持ち、社会の一員としての役割・責任・義務を負う、主体としての自分という存在」(下線点は私)だと定義されている。身と体は社会的自己の身分と形状を表すもので、概念使用上その違いがはっきりとしている。「体」が肉体の和語的表現であるのに対して、「身」は身分を弁えて自分の名乗る言い方である。例えば、「身の程を知らない」とは、他ならぬ自分自身のことを知らない・自分を弁えないこと。「身を入れる」とは、自分の全力を尽くすこと。「身を滅ぼす」とは、自分の人生を台無しにすること等々、事例を挙げればきりがない。「身」は第一人称(話し手)である「わたくし自身」のこと(『三国志』参照)だが、「御身」(おみ・おんみ)では第二人称(対称)の「あなた」となる(石川啄木、「節子、予は御身が恋しい」)。いずれにしても、わたくしのことを「自分は」という習慣が中国にあったとは、実に驚きである。
さて、「身」を使った事例をドイツ語に翻訳するとすぐに分かることだが、そういった慣用的表現のいずれに於いても、「身体」(Körper)という概念が使用されることはない。ところが、例えば先程の「身の程を知らない」をドイツ語で言うと、Du kennst dich selbst nicht. (d.h. Du bist überheblich、身の程を知らぬやつだ、つまり「お前は思い上がっている」)となる。他の例文を列挙して比較参照すると一目瞭然、「体」はKörper, 「身」はLeib に相当していることが分かる。シンタックス上、正しくは述語部を明記して Körper haben(体を持つ) と Leib sein(体で有る) の違いとなる。「身体現象学」者が前者に注目する余り、後者を蔑ろにするか、存在と所有を区別しない(人格に注目する余り、遂行と存在を混同するほど、働くモノ自体の実質価値に拘る)。つまり、我が師・恩師のフッサールや大先輩のシェーラーに対して、若輩のハイデガーが詰め寄った《オントロギー》明け初めの地平が、此処・其処・彼処に見え隠れするではないか。二人(師弟の)対話を扱ったハンス・ライナー・ゼップの台本『(死の)暗影に包まれた国』のテクスト研究が、いよいよ面白くなってきそうな気配がする。それに加え、古今未曾有の「言葉の連鎖」(共鳴体の言語事件)の予感がしてならない。興味津々として醒めやらず、今からして「眠られぬ夜」の予感である。(続)

Shigfried Mayer,  copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2011年2月4日金曜日

リスクとブレイク、「終わり」への眼差し

Riskantes Gespräch, Brechen aus dem Ende, oder Blicken ins "Letzte"

これは日本の若者に限らず、欧米の若い世代についても一様に、「リスク感が足りない」とか、「ブレイク感に乏しい」などと呟かれる、最近よく耳にする話ですが、見過ごしに出来ない問題を提起しています。「平和暈けしている」からだという、在り来たりの理由だけでは、問題は何一つ解決しないでしょう。第一、暈けているのはどちらだと聞き返したくなる。「空気が!読めない」という大人に、「空気しか!読めないの?」と言い返したくもなる。もちろん、具体的なデータ解析に基づく反論の証拠を提示できるようにしておかないと、徒にリスクを背負い反感を買うだけで終わる、つまりせっかくの「良縁」もブレイクダウンする他ない。そこで今回は、身近に迫るリスクとブレイクを予感し、なぜか「初め」からでなく、敢えて「終わり」(das Ende, das Letzte)からアプローチする、思索者たちの対話技法、フッサール晩年の「美学」(Ästhetik)への関心と、ハイデガーでブレイクする「終わり」の秘密に迫る、芸術文化の言論課題について、少しばかり考えてみたい。
最近プラハ大学と不思議な縁があり、フッサール研究の第一人者ハンス・ライナー・ゼップ教授の面識に与るシャンスをいただきました。これを機に、彼の作品『影の国』("Schattenreich / Reino de sombras")を今読んでいるところです。シャッテン・ライヒとは、神話学で「死者の国、冥界」のことですから、邦訳題の「影の国」でなく、おそらく「死の暗影に包まれた国」ほどの意味でしょう。「時間」について師弟間で内々に、しかし激しいやり取りに息つく暇もないほどインパクトが強い、「生と死」についてフッサールとハイデガーの間で交わされた、対話形式の「台本」です。これがなぜ台本かというと、現に交わされた対話を記録したプロトコルではないからです。口伝資料に基づく創作とは言え、コンテンツはとても奥が深く、興味の尽きないところです。「超越論的主観性」の立場に固執する生真面目一徹の師が、時間についての討議の中で、自分の弟子から次第に袋小路に追いつめられる様子が、生き生きと描かれています。ハイデガーは、意識に於ける時間の流れを均質的に捉えるフッサールに対して、ゾルゲ’(憂慮)に生きる現存在を例に挙げて、最後に「死は可能性で有る」と説いています。「そんな馬鹿な、冗談だろう」と、師は一蹴しようとします。しかし、弟子は師を批判して一歩も引かず譲らない。日本では、師を批判するやつはもう来なくてもいい(顔も見たくない)。即刻お前は首だとなるでしょう。しかし欧米では反対に、師を批判出来ない人は弟子になれない、弟子志願の資格はないのです。その人が論敵の立場に有ろうと、自分を批判し乗り越えようとする立派な後輩に席を譲る、ずばり「禅譲する」のです。ハイデルベルク大学で、クニースの後任となったヴェーバーにしても、同様でした。大変な文化の違いですね。でも昔から、「公案」で師弟が激しくぶつかりあう禅の伝統にそれがあったことは、意外と知られていないようです。「法は無形」として働くモノは、「体」のみがよくぞ知る、「自己」経験の秘密です。
さて、死は人生最大のリスク、終わりの到来(納期)の予感です。リスクの予感とは己の死、自分を已(すで)にとする時、納期を予感する覚悟性なのですね。それが現存在の可能性だということが理解できるかどうかが、ここで二人を分かつ分水嶺となっています。難しい話はさておいて、終わりこそシャンス(可能性)だということを、どう理解したらよいでしょうか。可能性としての終わりは、学生諸君であれば、就活で行き詰まって「もう終わりだ」と叫ぶ、その終わりから始めることです。すでに就活を終えて会社員やビジネスマンとなった諸君にとっては、「納期」を知ることから万事が始まるのだということを、自覚する必要があるでしょう。ビジネスに失敗して自己破産しても、それが終わりではないのです。ハイデガーが「死」を語るとき、その終わりを自分に語らせる、ゾルゲに悩まされて行き場を無くした現にその時を、現存在の可能性(シャンス)として認めるよう勧めているのです。社会学思想の概念で言えば、これが「目的合理的」な生死の理解です。どこか、ヴェーバーの目的合理性理解に近い、共有可能なものを感じさせます。
リスクに対してブレイクの予感とは、まさしく「死」の終わりから働くモノが有り、自らブレイクしてくる、その様な終発的な「言語事件」(Sprach-ereignis)への予感です。 ブレイクと言っても、brake, bremsen (「ブレーキをかける」)ことではありませんよ。break, brechen (「破る、壊して開ける、突破する」)ことです。「今年は○○がブレイクしそうだ」とか言うでしょう。インフレで閉塞した景況感を突き破る、つまりブレイクするモノの働きを予感する、優れた言語感性が求められます。その様な理由から、今年のテクスト研究の主題は、「リスクとブレイク、《終わり》の美学」という主題にしました。リスク感やブレイク感の乏しい世代だと悪口を叩かれないために、前出したゼップのドイツ語訳テクストとハイデガーの『芸術作品の根源』を原書で読み合わせます。研究の成果については、このブログで折々ご報告する機会があろうかと存じます。それまで楽しみにしてお待ちください。ひとまずここは、節句に拙句の一つを添えて、話を締め括っておきます。

青丹よし、プラハが春の峠かな、ブレイクスルーの壁に魅せられ

Shigfried Myaer,  copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2011年1月23日日曜日

「分水嶺」に辿る、社会言論史考

Einführende Geschichte der Sozial-Rede an der "Wasserscheide"
 このコスモス(世界)に、「立つことの出来る場を我に与えよ」(ドース・プー・ストー)とは、古代ギリシャの哲学者が言ったことです。ドイツ語にすると、"Gib mir (Platz), wo ich stehen kann!" です。それ以来、職の場を求めるニーズは、いつの世も変わりません。マニファクチャーがイギリスで成立した近代以降、しかもフランスの人権思想に後押しをされた「機会均等法」が公布されて以来ですね、いっそう職場の争奪戦・就活の厳しさが増しています。特にデフレの時期では、需給のバランスシートが崩れるので、相当に厳しい環境が予想されます。新規採用への抑制が働いている、その様な困難な状況の中で、自分の居場所・働く場所を探すとは如何なることか、「分水嶺」に辿りつつ一緒に考えてみましょう。
 複数員で構成されるゲマインシャフト群像の歴史(働くモノとヒトの社会言論史)には、山あり谷ありの目に見える表層の起伏だけでなく、深層の至る所に見えざる岐路(水面下に隠れた分節点・分岐点)があります。ヒトで有る故の、喜怒哀楽を巡る仮初めの「共感」(シェーラ-)や、合わせ技に近い「感情移入」(リップス)でない、相手の予想することに準拠した「諒解行為」(ヴェーバー)をするにしても、ヒトで有ること(主観と人称、ペルソーナ)の屈折点・見えざる分岐点までは予想しがたい。就活中の諸君(歴史的個人)が集団社会(利害に絡むゲゼルシャフト)に埋没しない為には、働くモノの屈折点・見えざる分岐点を、第三人称の目線で追えるようにしておくこと。見えざる協定で束ねられた第三人称世界の「諒解関係」を理解し、これに応えうる自己分節化の働きを、座標上に点と線を描き繋ぐようにして、直観的に把握できるようにしておかなければなりません。
 わたしが正しいと思ってすること(主観性の原理)を、誰がしても法則的に妥当する普遍性(誰もが客観的な見積もり可能性として認めるレベル)へと高めるには、何が必要でしょうか。人格性と非人格化の働きを転倒させる、営利追求的資本主義社会の巧妙な「絡繰り」(Kunstgriff, optische Täuschung)を見破り、上下左右の出方を予想可能な言語感性を磨いて、自分たちのすること(協働行為)を、万人に妥当する意志的行為となるよう、実践理性の「格率」(カント)を高める必要があります。労働組合の運動も然りです。カントの確率論は、唯物史観の批判者で法学者のシュタムラーを論駁するヴェーバーにとって、最良の《手》引きともなる、「目的合理性」理解の要石(大前提)です。
 就活中の諸君にとって、そのようなことを考えるのは面倒かも知れません。でも、行く先が決まり働く目的がはっきりすれば、それまで面倒だった長い紆余曲折の道のりを、最短距離で済ます(合理化する)ことが出来ます。七日間仕事するのは週末に休み(有給休暇)を得るためであり、休むのは次の七日間の仕事を成し遂げるためです。目的次第で、仕事ぶりも休日の過ごし方も、今までとは一変するでしょう。目標が定まれば、無駄なことは止め余計なことは掃き捨てる、趣味の遊びも控え努めて「節約する」(貯蓄する)ようになるでしょう。これが目的合理性です。ヴェーバーは、目的合理的行為が「一番明証的」だと言っています。
 別の譬えを用いて説明します。君たちが自分で正しいと考えて目的合理的にすることが、「諒解関係」の世界で妥当する為には、生涯に一度でいい、しかし必要に応じて何度でも、「分水嶺」(Wasser-scheibe, watershed)となる「峠」(Bergpass)に佇み「安らう」(濁りを「澄ます」)という、自分を納得させるに十分な「明証性」(Evidenz)の体験が必要です。峠が分水嶺となる其処から、雨水が地下に浸透し源泉(Quelle)となるように、例えばシュワーベンの山の麓から、突如大量の水が懇々と湧き出て、ドナウ川の支流となるブラウボイレンの泉(Quelle)のように、歴代のマイスターたちが《人差し指》を立てて彼方を望ませる峠道の、分水嶺で安らう私たちの関心(Inter-esse)が、尽きることはありません。
 就活で挫折しそうな君たちへ。目の前に自分の「壁」となって立ちはだかるモノ、それが君たち自身の越えるべき峠であり分水嶺となります。考えるヒントは以下の通り、どこにでもある「路傍の石」です。若き日のハイデガーも、例外ではありませんでした。就活中の彼が「戦時短縮講義」(『大学とアカデミー的研究との本質について』、1919年夏学期)で自ら「職業」について触れるとき、同年の初頭にミュンヒェン大学でなされたヴェーバーの講演(『職業としての学問』、1919年1月)が念頭にあり、発話の動機(源泉)となっていたのではないかと考えられます。これはヴェーバー自身に於いても然り、彼が1913年に『理解社会学のカテゴリー』論文を「ロゴス」誌上に掲載して関係者を驚かせたとき、シュタムラーの『唯物史観からみた経済と法』(第2版、1906年)が直接の引き金となったとは言え、ジンメルが先駆けて発表した「理解」についての諸論文(『歴史哲学の諸問題』、1892年)があり、やはり同年の初頭に出版されたフッサールの『イデーン』1(1913年2月)を加えて、この三つが相俟って一つの《手》となり、ヴェーバー自身に「理解社会学のカテゴリー」構想を迫り実現させています。彼が佇む其処は、眼下に分水嶺を覗かせたあの「峠道」に通じています。ゴットルやマイヤーとの論争は、但し書きをする二次的参照に過ぎません。何を語りどう行為するにしても、《手》を使い「考える」ことの源泉との「近さと遠さ」が問われる所以です。
 最後に私事で恐縮ですが、私の体験を添えておきます。1999年に明治大学で為された大島淑子先生の講演、『近さと遠さ-ハイデガーの芭蕉との邂逅』(2003年)が、その後の私の研究活動を左右する分水嶺となりました。読者の中で教職経験のある方であれば、同様の「軸足の転回」を余儀なくされた体験をお持ちではないでしょうか。「分水嶺に辿る社会言論史」について、ぜひ、ご自分の貴重なご体験をお聞かせください。新年度は「文化と芸術」を担当する立場から、ハイデガーの『芸術作品の根源』(1934/35年)を取り上げる予定です。「科学への反目と詩作への信仰」(レペニース)がドイツ・イデオロギーとして流布するに至る獣道を分析し、ルサンチマン論やロマン主義系譜の批判だけでは言い尽くせない、社会言論史の「根源」(源泉・分水嶺)にまで迫ります。

Shigfried Mayer,  copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku 

2011年1月15日土曜日

「結んで開いて」はルソーの世界

Kinderlied "Hände zu und auf mal", basiert auf Rousseaus Welt
  本年度は、レペニースが『三つの文化』論で提起する、文学と社会学のジレンマを取り上げ論じてきました。振り返ってみれば、「二つの文化」論(スノー)に第三の文化位相としての、ドイツ社会学思想に着目し力を注いだ分、啓蒙主義発祥の地フランスが遠のいた感を拭えません。そこで今回は久々に、隣国フランスに纏わるこぼれ話、とっておきの話をしておきたい。
先日縁があって、社会福祉法人千歳会のキリスト教系保育園の誕生会で、「結んで開いて」と題して短い講話をしました。最初は(0歳児の)グーで、一二三と親指から順に開いていきます。童謡のスタイルは、指を「結んで開いて」いく数え歌の類です。この童謡は日本でもよく知られており、保育園や幼稚園の園児も歌えるほどですが、肝心の由来となると意外に不明な点が多い。数え方の習慣は以前からあったのでしょうが、「結んで開いて」の曲と歌詞は、確かにルソーの時代のものです。ルソーが1752年に作曲したもの(翌年の1753年一般公開の、オペラ『村の占い師』第八幕のパントマイム劇で演奏された)に、後から歌詞として付けられたという事実に基づいています。歌詞の歴史を調べてみると、最初のは1773年にジョン・フォーセットが作詞しています(”Lord, dismiss us with Thy blessing”、「主よ、ここを立ち去るわたし達に、あなたのご加護(祝福)を!」。ジャン・ジャック・ルソーの原曲に採用された歌詞には、グリーンヴィルの名称(Greenvilleは讃美歌名)が付けられていることでも分かるように、最初に採用されたこの歌詞は讃美歌でした。最初の受け皿が讃美歌とは、意外でしょうか。原曲を元にした『ルソーの新ロマンス』(作曲者不明)はその二年後の1775年、『メリッサ』(チャールズ・ジェームズ)のラブソングは、五年後の1788年ですから、先行順位は変わりません。
  しかし肝心の、「結んで開いて」の歌詞と原曲の繋がりが恣意的か必然的かについては、どうもはっきりとしません。 この繋がりの真相を解明するために、①幼児教育のコモンセンス、②社会教育のイデアール、の二点に絞り込んで考えてみましょう。典拠となる文献も口伝もないために、推測に頼らざるを得ませんが、中江兆民が1871年フランスに渡航後、現地の家庭でなされる幼児教育の実際(リアル・コモンセンス)を見聞し、「結んで開いて」する《手》の重要性に気づいたのではないでしょうか。更に、自由民権運動の思想が社会教育のイデアール(「社会契約」に基づく自然状態の発見)に貫かれていることに、目を見張らないはずはなかったのではと推測されます。「結んで開いて」する《手》の仕草は、「社会契約」の理想からもたらされる「自然状態」の発見と模倣、当事者のクライエントに導き《手》を意識させない、さり気ない自然な《手引き》で有るかのように再現する、教育的指南も親権者の工夫に過ぎなかったのかも知れません。しかし、それが教育面だけでない、欧州大陸を震撼させる社会思想史的事件にまで発展します。
当時18世紀の啓蒙主義世界を席巻した「見えざる手」を巡り、「二つの文化」思想が関与しています。例えば、ルソーの「隠された《手》」(『エミール』、『新エイローズ』)のモティーフは、ある時は家庭教師の《手》に、またオペラ『村の占い師』では、都会と田舎を舞台にした失恋騒動の背後で、二人の主人公を和解へと仕向ける占い師の《手》として貫かれています。これは、「パストラル文学」の特徴と見られているように、「隠された《手》」がもたらす平和的秩序や、隷属的でない自由な関係、ルソーが主張する「社会契約」関係からもたらされるべき自然な人間関係(祝福された自然状態)に一貫しています。原曲とは別に、ドイツ系イギリス人のヨハン・バプティスト・クラーマーの変奏曲『ルソーの夢』は、二年後の1775年に作曲されています。この楽譜がイギリスで発行されたのが1812年、すでに18世紀初頭、マンデヴィルの『蜂の寓話』(1705 / 1714年)論争で一悶着した後のイギリス社会では、アダム・スミスの「道徳感情論」が定着しており、人為的な「見えざる手」が神の摂理を補完する役割、「自利の私悪は公共の益」(マンデヴィル)を口実にして、私悪を善に繋げる有用性を認める論議にまで発展する中で、功利主義者たちの格好の関心事として浸透しています。「見えざる手」と「隠された手」、この二つは政治経済と文学及び社会学上の倫理的モティーフとして、同じルートの上にあり、どこかで「臍の緒」に繋がっているものと考えられます。ドイツでは、国民経済学者で歴史学派のロッシャーがこれを有機体世界論に取り入れて論じ、ヴェーバーがこれを『ロッシャーとクニース』論文(1903~1906年)で論駁し斥けたのが20世紀初頭ですから、音楽方面にドイツ系の関係者がいたとは言え、いかにドイツが(フランスやイギリスに対して文化意識の上で、少なくとも時間的に)「後進的」であったか分かります。ヴェーバーの『理解社会学のカテゴリー』(1913年)に先だって刊行されたボンセルスの『蜜蜂マーヤの冒険』(1912年)も、後発のドイツ的特殊性を考える上で見逃せない作品です。いずれも、実は三つの文化圏(カルヴィニズムの世界)内でやり取りされた「諒解関係」の事件簿なのです。
その上で改めて、「結んで開いて」を読み直してみると、これまた意外にも、「見えざる《手》」と「隠された《手》」を使うメタファーの世界に行き着きます。すると、「作詞者不明」のこの歌詞は、ルソーのよき理解者であった中江兆民自身の記憶を元に、彼が或いは彼に共感したところを、1947年に誰か(共感者の一人)が小学校一年生用の音楽教科書の歌(文部省唱歌)として作詞したのではないか。確かに、ルソーの世界でこそ、「結んで開いて」の真意が読み解かれうるのではないか、と考えられるからです。日本の場合はどうでしょうか。古来インドと中国との間で三つの文化を、はたして「結んで開いて」きたと言えるでしょうか。「結んで開いて」は童謡の世界といえども、私たち日本人が過去に経験したことのない、欧州大陸に啓蒙主義の文化(反啓蒙主義を含む、社会言論思想)を根付かせ繁栄させた、結んで開く「諒解」関係の世界を偲ばせるに足る、山椒一粒の「言語事件」と言えそうです。
最後に、ルソーには全く言及しないハイデガーですが、《手》のモティーフをゲッシック(Geschick、送り届けられるモノ)に読み取ることが出来れば、都会と農村(大地)のコンフリクトというシェーマでは、二人の関心は一致します。デリダの『ハイデガーの手』については、ジェンダー・メタファアー(Geschlechts-Metapher)の根幹に係わることなので、詳細は別途に論じたい。

(以下は、誕生会でした話しの骨子です。幼児向けのお話「ルソーの夢」を大人向けに書き直しておきました。関心があったらお読みください。)
誕生日祝いに、わたし達はたくさんの贈り物をいただきます。贈り物は、自分の手で受け取るもの。つまり、手を「結んで開いて」の順で受け取ります。最初はグーです。グーは0歳児のしるしです。保育園では、「結んで開いて、手を打って結んで、また開いて…」と歌う、つまり「結んで開いて」の順です。でも一二三と数えるときは、日本人はなぜかその反対に、「開いて結んで」の順です。おかしいですね、イエスが生まれたベツレヘムやキリスト教国の欧米では、例外なく「結んで開いて」の順で数えます。「開いて結んで」の順ではないのです。ものを数えるときはいつも、「結んだ」手を「開いて」いって、十一からまた「結ぶ」でしょう。最初はグー、一から十までは、親指から順に「開いて」いって、紅葉(もみじ)の形にします。十一からは反対に、手指を折りたたみ、「結んで」いくようにして数えます。わたし達がまだお母さんのお腹にいたときは、手をこぶしにして「結んで」いただけですね。でも、おぎゃーと声を出して無事生まれたら、お婆ちゃんかお母さん(自然)にやさしく孫の手を「開いて」いただいたことでしょう。そこはまるで、ルソーの『エミール』の世界ですね。
 《手》には指が五本、両手あわせて十本です。最初はグーに「結んで開いて」をたくさん練習して、あとで大きくなってから、自分の手で何でも掴めるようになるために、神からいただいた最高の贈り物なんです。私がまだ高校生だった頃、クリスマスのお祝いに、瀬戸内海に浮かんだ小さな島にぽんぽん蒸気船に乗って、ライ病の療養所(大島青松園)に行ったことがあります。機能回復訓練所で、開いた手の形をしたセルロイドの板を刃物で削る、感染の恐れがある危険な作業をお手伝いしました。ライの病気にかかった人は、夜寝る前に五本の指にセルロイドの板を付けたままにして寝ます。どうしてそんなことをするのかというと、寝てる間に開いた指が縮んで閉じてしまうからなんです。縮んで閉じた指は二度と元には戻りません。ですから、毎日朝起きたら一番に、セルロイドの板を取り去って、「結んで開いて」をせっせせっせと一日中練習するんです。どんなに体が悪い人でも、「結んで開いて」を何度も練習することで、神のくださる祝福を自分の手にすることができるようになるのです。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku


脚注: 原曲の楽譜と歌詞については、以下のリンクを辿って参照してください。
Greenville, Jean-Jacques Rous­seau, 1752 (MIDI, NWC, PDF)
http://ja.wikipedia.org/ ← 「むすんでひらいて」を検索、日本語で解説


2011年1月2日日曜日

年頭所感:友と対話に恵まれた一年を

Guten Rutsch ins Neujahr,  und angenehme Unterhaltengen mit den Freunden!
皆様、明けましておめでとうございます。昨年10月にブログを開設して早三ヶ月、様々な反省点があります。ヒントだけでなく、教えたがり屋の一面が前面に出すぎた嫌いがありました。いみじくも朝日新聞2011年度元日版の一面記事で、編集委員の氏岡真弓さんが提案しておられるように、「答は対話の中に」あり、「教えずに教える」、つまり正解を教えずに、対話の中で自ら考えることを教えるべきだ、という意見が正鵠を得ています。ドイツ留学の当初、わたし自身シュライエルマッハーの「解釈学」と「弁証法」を専攻していた経緯があり、ニーズについてはよく承知しております。帰国後社会学に専念する中で、ヴェーバーの「理解社会学」の解釈課題として、社会学言論の発問と対話の弁証法モデルを、探求の課題とするようになった背景には、そのような理由があります。「対話の文法、社会学のジレンマ」で指摘しておいたように、言葉が曖昧な日本語世界では、合理的な対話が成り立たないから、格別の工夫が必要とされます。「疑う」も「信じる」も中途半端な言論世界では、いつどこで言葉が暴発し、暴力的に語るモノに抗し得ず、家庭崩壊・学級崩壊が起きてもおかしくありません。そこで、「疑う」と「信じる」を絶対化しない、疑わしい自己超越物は「一旦括弧の中に入れる」(フッサール)こと、その上で「考える」工夫を凝らす必要があります。卑近な例ですが、次のコージブスキーの言葉が印象的です。
「楽に生きる術が二つある。すべてを信じるか、すべてを疑うかだ。どちらの場合も、考えずにすむ。」(アルフレッド・コージブスキー)。原文の英語では、
 There are two ways to slide easily through life; to believe everything or to doubt everything; both ways save us from thinking.” 
因みに、ドイツ語に訳してみると、以下のようになります:
Es gibt zwei Wege, unbelastet mit Leichtigkeit unser Leben zu verbringen. Nämlich, entweder alles zu glauben, oder alles zu bezweifeln. Beide sind uns dabei behilflich, ohne Denken auszukommen.“  (Alfred Korgybski, übersetzt von Shigfried. Mayer)
手当たり次第に不信感を募らせすべてを疑えば、「絶望する」以外に選択肢はありません。でも反対に、耳にすることを鵜呑みにしたり安易にすべてを信じたりすれば、「盲信する」ことになります。断定することは簡単でしょうが、最後まで真意を問い質し「考える」・考え抜くことは、誰にとっても面倒で苦痛を伴います。しかし、自分に壁となって立ちはだかるモノと対話する(ダルマ、「壁観に凝住する」)中で初めて、苦の意味(因果関係)が分かれるのだとすれば、対話する中ですでに答は与えられています。自分を苦しめるコンフリクトの原因が分かれば、誰でも苦に耐えられる、問題解決のシャンスを「待つ」ことが出来る、苦楽のポイントを「予想する」ことが出来る、そのような予想に準拠して行為する(回避行為を含め、一歩後退の余地を残し、名誉ある退路を互に保証する)ことが、苦にせずに難なく出来るようになるでしょう。ヴェーバーが語る「諒解行為」の関係は、商い行為に限らず、そのような文化的・倫理的な広がりを持った概念です。グローバル・ネットワークの世界はカオスの海、その中で「諒解関係」を構築しようとしても、一筋縄ではいかないでしょう。さて、皆さんはどうお考えでしょうか?今年はぜひ、忌憚のないご意見を伺わせてください。
今年(二丸イレブンの年)は何としても、発問して自ら考える、よき友と対話に恵まれた一年を皆様に祈りたい。家庭や学級の崩壊に歯止めをかけ、経済と人間デフレから脱却する、社会の自己再建が可能となることを切に願いつつ、今年を「理解社会学」の元年としたい。個人的には、読者の予想に準拠し、柔軟に発問に受け応え出来るような、ブログ問答集をオープンスペースで書き綴ってみたいと存じます。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku