2011年2月4日金曜日

リスクとブレイク、「終わり」への眼差し

Riskantes Gespräch, Brechen aus dem Ende, oder Blicken ins "Letzte"

これは日本の若者に限らず、欧米の若い世代についても一様に、「リスク感が足りない」とか、「ブレイク感に乏しい」などと呟かれる、最近よく耳にする話ですが、見過ごしに出来ない問題を提起しています。「平和暈けしている」からだという、在り来たりの理由だけでは、問題は何一つ解決しないでしょう。第一、暈けているのはどちらだと聞き返したくなる。「空気が!読めない」という大人に、「空気しか!読めないの?」と言い返したくもなる。もちろん、具体的なデータ解析に基づく反論の証拠を提示できるようにしておかないと、徒にリスクを背負い反感を買うだけで終わる、つまりせっかくの「良縁」もブレイクダウンする他ない。そこで今回は、身近に迫るリスクとブレイクを予感し、なぜか「初め」からでなく、敢えて「終わり」(das Ende, das Letzte)からアプローチする、思索者たちの対話技法、フッサール晩年の「美学」(Ästhetik)への関心と、ハイデガーでブレイクする「終わり」の秘密に迫る、芸術文化の言論課題について、少しばかり考えてみたい。
最近プラハ大学と不思議な縁があり、フッサール研究の第一人者ハンス・ライナー・ゼップ教授の面識に与るシャンスをいただきました。これを機に、彼の作品『影の国』("Schattenreich / Reino de sombras")を今読んでいるところです。シャッテン・ライヒとは、神話学で「死者の国、冥界」のことですから、邦訳題の「影の国」でなく、おそらく「死の暗影に包まれた国」ほどの意味でしょう。「時間」について師弟間で内々に、しかし激しいやり取りに息つく暇もないほどインパクトが強い、「生と死」についてフッサールとハイデガーの間で交わされた、対話形式の「台本」です。これがなぜ台本かというと、現に交わされた対話を記録したプロトコルではないからです。口伝資料に基づく創作とは言え、コンテンツはとても奥が深く、興味の尽きないところです。「超越論的主観性」の立場に固執する生真面目一徹の師が、時間についての討議の中で、自分の弟子から次第に袋小路に追いつめられる様子が、生き生きと描かれています。ハイデガーは、意識に於ける時間の流れを均質的に捉えるフッサールに対して、ゾルゲ’(憂慮)に生きる現存在を例に挙げて、最後に「死は可能性で有る」と説いています。「そんな馬鹿な、冗談だろう」と、師は一蹴しようとします。しかし、弟子は師を批判して一歩も引かず譲らない。日本では、師を批判するやつはもう来なくてもいい(顔も見たくない)。即刻お前は首だとなるでしょう。しかし欧米では反対に、師を批判出来ない人は弟子になれない、弟子志願の資格はないのです。その人が論敵の立場に有ろうと、自分を批判し乗り越えようとする立派な後輩に席を譲る、ずばり「禅譲する」のです。ハイデルベルク大学で、クニースの後任となったヴェーバーにしても、同様でした。大変な文化の違いですね。でも昔から、「公案」で師弟が激しくぶつかりあう禅の伝統にそれがあったことは、意外と知られていないようです。「法は無形」として働くモノは、「体」のみがよくぞ知る、「自己」経験の秘密です。
さて、死は人生最大のリスク、終わりの到来(納期)の予感です。リスクの予感とは己の死、自分を已(すで)にとする時、納期を予感する覚悟性なのですね。それが現存在の可能性だということが理解できるかどうかが、ここで二人を分かつ分水嶺となっています。難しい話はさておいて、終わりこそシャンス(可能性)だということを、どう理解したらよいでしょうか。可能性としての終わりは、学生諸君であれば、就活で行き詰まって「もう終わりだ」と叫ぶ、その終わりから始めることです。すでに就活を終えて会社員やビジネスマンとなった諸君にとっては、「納期」を知ることから万事が始まるのだということを、自覚する必要があるでしょう。ビジネスに失敗して自己破産しても、それが終わりではないのです。ハイデガーが「死」を語るとき、その終わりを自分に語らせる、ゾルゲに悩まされて行き場を無くした現にその時を、現存在の可能性(シャンス)として認めるよう勧めているのです。社会学思想の概念で言えば、これが「目的合理的」な生死の理解です。どこか、ヴェーバーの目的合理性理解に近い、共有可能なものを感じさせます。
リスクに対してブレイクの予感とは、まさしく「死」の終わりから働くモノが有り、自らブレイクしてくる、その様な終発的な「言語事件」(Sprach-ereignis)への予感です。 ブレイクと言っても、brake, bremsen (「ブレーキをかける」)ことではありませんよ。break, brechen (「破る、壊して開ける、突破する」)ことです。「今年は○○がブレイクしそうだ」とか言うでしょう。インフレで閉塞した景況感を突き破る、つまりブレイクするモノの働きを予感する、優れた言語感性が求められます。その様な理由から、今年のテクスト研究の主題は、「リスクとブレイク、《終わり》の美学」という主題にしました。リスク感やブレイク感の乏しい世代だと悪口を叩かれないために、前出したゼップのドイツ語訳テクストとハイデガーの『芸術作品の根源』を原書で読み合わせます。研究の成果については、このブログで折々ご報告する機会があろうかと存じます。それまで楽しみにしてお待ちください。ひとまずここは、節句に拙句の一つを添えて、話を締め括っておきます。

青丹よし、プラハが春の峠かな、ブレイクスルーの壁に魅せられ

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