2011年1月2日日曜日

年頭所感:友と対話に恵まれた一年を

Guten Rutsch ins Neujahr,  und angenehme Unterhaltengen mit den Freunden!
皆様、明けましておめでとうございます。昨年10月にブログを開設して早三ヶ月、様々な反省点があります。ヒントだけでなく、教えたがり屋の一面が前面に出すぎた嫌いがありました。いみじくも朝日新聞2011年度元日版の一面記事で、編集委員の氏岡真弓さんが提案しておられるように、「答は対話の中に」あり、「教えずに教える」、つまり正解を教えずに、対話の中で自ら考えることを教えるべきだ、という意見が正鵠を得ています。ドイツ留学の当初、わたし自身シュライエルマッハーの「解釈学」と「弁証法」を専攻していた経緯があり、ニーズについてはよく承知しております。帰国後社会学に専念する中で、ヴェーバーの「理解社会学」の解釈課題として、社会学言論の発問と対話の弁証法モデルを、探求の課題とするようになった背景には、そのような理由があります。「対話の文法、社会学のジレンマ」で指摘しておいたように、言葉が曖昧な日本語世界では、合理的な対話が成り立たないから、格別の工夫が必要とされます。「疑う」も「信じる」も中途半端な言論世界では、いつどこで言葉が暴発し、暴力的に語るモノに抗し得ず、家庭崩壊・学級崩壊が起きてもおかしくありません。そこで、「疑う」と「信じる」を絶対化しない、疑わしい自己超越物は「一旦括弧の中に入れる」(フッサール)こと、その上で「考える」工夫を凝らす必要があります。卑近な例ですが、次のコージブスキーの言葉が印象的です。
「楽に生きる術が二つある。すべてを信じるか、すべてを疑うかだ。どちらの場合も、考えずにすむ。」(アルフレッド・コージブスキー)。原文の英語では、
 There are two ways to slide easily through life; to believe everything or to doubt everything; both ways save us from thinking.” 
因みに、ドイツ語に訳してみると、以下のようになります:
Es gibt zwei Wege, unbelastet mit Leichtigkeit unser Leben zu verbringen. Nämlich, entweder alles zu glauben, oder alles zu bezweifeln. Beide sind uns dabei behilflich, ohne Denken auszukommen.“  (Alfred Korgybski, übersetzt von Shigfried. Mayer)
手当たり次第に不信感を募らせすべてを疑えば、「絶望する」以外に選択肢はありません。でも反対に、耳にすることを鵜呑みにしたり安易にすべてを信じたりすれば、「盲信する」ことになります。断定することは簡単でしょうが、最後まで真意を問い質し「考える」・考え抜くことは、誰にとっても面倒で苦痛を伴います。しかし、自分に壁となって立ちはだかるモノと対話する(ダルマ、「壁観に凝住する」)中で初めて、苦の意味(因果関係)が分かれるのだとすれば、対話する中ですでに答は与えられています。自分を苦しめるコンフリクトの原因が分かれば、誰でも苦に耐えられる、問題解決のシャンスを「待つ」ことが出来る、苦楽のポイントを「予想する」ことが出来る、そのような予想に準拠して行為する(回避行為を含め、一歩後退の余地を残し、名誉ある退路を互に保証する)ことが、苦にせずに難なく出来るようになるでしょう。ヴェーバーが語る「諒解行為」の関係は、商い行為に限らず、そのような文化的・倫理的な広がりを持った概念です。グローバル・ネットワークの世界はカオスの海、その中で「諒解関係」を構築しようとしても、一筋縄ではいかないでしょう。さて、皆さんはどうお考えでしょうか?今年はぜひ、忌憚のないご意見を伺わせてください。
今年(二丸イレブンの年)は何としても、発問して自ら考える、よき友と対話に恵まれた一年を皆様に祈りたい。家庭や学級の崩壊に歯止めをかけ、経済と人間デフレから脱却する、社会の自己再建が可能となることを切に願いつつ、今年を「理解社会学」の元年としたい。個人的には、読者の予想に準拠し、柔軟に発問に受け応え出来るような、ブログ問答集をオープンスペースで書き綴ってみたいと存じます。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku