2013年3月6日水曜日

ジェネレーション・ギャップの秤値は、乱数それとも定数?

【3月17日更新】
 少子化社会だからこそ、世代交代の如何にが問題となります。世代の考察には、通常プランク定数(Planck's constant)が参照されています。プランク定数は、ドイツの量子力学者マックス・プランクの立てた理論(光子のエネルギーが振動数に比例する定数)です。物理学の公式が苦手な読者も多いと思うので詳細は省きますが、定数は理論値でなく実測値で通常4年とされており、それもコンピューターを使った計測機器の技術向上に伴い、実測し予測する精度は増し範囲は拡大していきます。世代考察の単位を4年とするのは、それだけあれば計測精度に改善の余裕があり、その検証に十分な時間が割り当てられ得ると考えて決められた期間、あくまでも計測上必要且つ十分な条件を満たす、その意味で有意な任意の期間です。
 失われた二十年の世代の20という数値は、実は予測可能な理論値でも実測値でもありません。バブル崩壊後の結果、経済不況(デフレ)に陥ってから遡って計られた経験値に基づく判断で、仮に4 x 5 = 20とみれば、プランク定数の振幅度の範囲内であると言えます。親の世代・子の世代・孫の世代を考えれば、20年を一単位として20 x 3 = 60(年)という変域を設定することができそうです。しかし、一世代という時の単位は、一般に30年とされています。例えば慣習上、一世代前とは30年前のことです(a generation ago = 30 years ago)。なので、二十年の世代の20年は予測された実測値でなく、あくまでも事後的に振り返って得られた秤値、つまり経験値だというのです。その証拠に、これは他に例のない日本だけの世代現象です。
 ではここで問題です。よく聞くジェネレーション・ギャップ(generation gap)は、何年を単位として計測されることでしょうか?家族単位でみれば、複数世代の問題(the multi-generation concerns of the family unit)となります。上記の通り一世代を30年とすると、孫の世代まで30 x 3 = 90(年)あり、複数年がオーバーラップ(overlap)します。そこで、30からオーバーラップの偏差を10として差し引くと、(30 – 10) x 3 = 60(年)となりそうです。最低60年もあれば、親・子・孫まで顔と顔とを合わせてジェネレーション・ギャップを確認し調整し合う時間が十分あり、隔たりを埋め合わせることができるでしょう。
 核家族化した最近では、事態はもっと深刻です。君たちよりもっと若い世代では、10年単位でジェネレーション・ギャップを感じるというアンケートデータさえ出ています。60年から10年への圧縮は、世代間の相互理解に深刻な影を落としています。いずれであれ、計測の基本は4年でいい。これは上記したように、世代の格差を計測するに必要にして有意な任意の期間に過ぎません。職場単位でみると、新卒者を社員として採用するたびに(つまり毎年)ギャップが生じるというわけではないので、これも4年ごとを単位(サイクル)として計測するのが妥当で、さしあたりの目安と言えるでしょう。
 さて、どんなギャップが感じられるか、どのような理由からそうなのか、世代ごとに個別差がありそうです。そこで、ブログの読者に質問します。あなたはどの年代の人にジェネレーション・ギャップを一番強く感じますか?よければご自分の年齢と、その理由を聞かせてください。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights all reserved 2013, the Institute for Rikaishakaigaku

2013年2月19日火曜日

失われた二十年の世代、原石の輝きを取り戻す鍵は

【2月21日更新】
 この春に成人式を迎えた諸君にまだ一言の祝辞も述べていなかったので、遅ればせながらこの場を借りてお祝い申し上げたい。「失われた二十年の世代」と揶揄されて、気持ちも晴れず複雑なことでしょう。でもね、失われた二十年という存在と時の刻印を帯びた世代が、原石の輝きを自分たちに取り戻す鍵は、実は君たち自身の手にあるのです。諸君がそれを発見するまで、わたしは友としていつまでも君たちに語るモノでありたい、問いかけるモノであり続けたい。
 さて新年度になって、ハイデガー研究会に新たな仲間が二人増え、それも社会的立場は多様な大所帯で、世代間の討議もいよいよ活気を帯びてきました。話し合いの結果、みんなの共有可能な関心が、どちらかと言えばハイデガーよりもカントとヴェーバーにあることを確認いたしました。並立を望んでも、三足の草鞋には無理難題。孫悟空のように、分身というわけにはいきません。そこで、ひとまずハイデガー研究会をいったん休会として(秋に再開予定)、これに代えてカントの『啓蒙とは何か』をドイツ語の原書で読み合わせ討議する会合(学習会)に組み替えることにしました。これは、理解社会学研究会の主催となります。
 振り返ってみれば、三年前(201011月)にブログを初めて書いたのが、カントについてでした。すでにブログのタイトルは「働くモノと自分のこと」から「働き蜂の失踪事件、語るモノを失ったヒトの群像」に更新されていますが、内容はカントの『啓蒙とは何か』を論じたものでした。そこでこの機を見逃さず、成人式を迎えたのに未だに「未成年状態」から脱せないで苦闘している諸君の先輩たち、就活中か就職後の、或いは転職を繰り返して路頭に彷徨う寸前の、悩み多き若者世代のために、自分に与えられた悟性や理性の使用についてカントが何を語ろうとしていたのか、翻訳書依存をやめ原書で(=判断を後見人に託さず自分で)その真意を探ることで、誰にも依存しない自由な存在の意味連関を確かめておきたいと存じます。僕たちは誰かのコピーなんかでない、失われた存在のルートに逸脱した自分の峠道を探り、野道にそっと捨て置かれた原石(考える我)を見つけ、その輝きを見極める縁と機会を提供することが、研究会組み替えの狙いです。
 場所はいつものJR北千住駅東口前にあるカフェーサンローゼ、時間は第三週日曜日の19時から21時までとします。テクストはドイツ語原書から複写して手渡しますので、持参するのは辞書とノートのみ、それが不要な方(「哲学なんかいらない」と考える人)は手ぶらでおいで下さい。ドイツ語が分からない人も、日本語訳(岩波文庫本)を持参して討議に参加されて結構です。丁寧にわかりやすく手ほどきいたしますので、心配は一切無用、一般参加は無料です。終わったら、近くの魚河岸グルメのお店で、味が失せない前にわいわい論じ合いましょう。思索するモノにも味わう時があり、口にするモノに賞味期限があるように。

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2013年2月5日火曜日

実体が無いのに、豊かさをどうやって実感するの?

【9月2日(月)更新】
 がむしゃらに働けば、豊かになるというわけでないことぐらいは、誰もが実感していることでしょう。働く人のすることが、期待値と経験妥当な値を満たしているかどうか。それが社会行為の適性(=諒解関係の指標)を計る二針の試金石です。矢を射ることに例えて言えば、洗練された言葉と的を得た行為でないと、何を語り何をしても、豊かさの実体を手にすることはできないだからです。
 あとは、囮(おとり)や騙しの金融派生商品(デリヴァティブ)に手を出さないこと、話題のモルヒネ経済政策の謳い文句には惑わされないこと。他でもない、「自分」のために働くのですからね。用心することに越したことはない。
 では、自分とは何でしょうか?考えるヒントは、前回もお話した、比の一の値で計られるものです。君たちが、整数倍で得をするか分数倍で損をするかのいずれであれ、豊かさの実感はそれ次第で増幅します。実体が無い(貧しい)にも拘らず、自分は豊かだ(満足している)という人さえいるのです。別に、清貧の徳をお勧めしているわけではないですよ。それでもご覧、貯金がゼロでも自給自足で誰にも依存しない、自由闊達な自分が、ほら其処にいる。ほらっ、此処にもいる。
 誰かに付く(師事する)としても、デダクティブ(演繹)やインダクティブ(帰納)だけでは、所詮自分の「帯に短し襷に長し」です。ならば、パースが唱えるアブダクティブ(仮導推論、仮説設定)ではどうでしょうか?ただ、投企するのは自分です(sich entwerfen)。景況の好き嫌いで投機的に走って、自分まで売り飛ばされないよう、くれぐれもご注意ください。放っておくと、「存在の忘却」(ハイデガー)は避けがたい。

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2013年1月13日日曜日

小事が大事な比の一を探せ、最適化のタイミングを見極めよ

【6月8日(土)更新】
 有名無名の経営者であれ政治家であれ、新任の教師であろうと就活中の学生であろうと、君たちが約束の言葉を実行せず蔑ろにしていると、たちまち信用を失い権威は失墜します。中でも、第三者が関与している約束事は、どんなに小さなことでもしっかりと守る。それが社会的信用価値を生み、安心の絆となる諒解関係を培います。そうでしょう?その反対に、小さなことだからといって言葉をいい加減にしていると、たちまち客離れや孤立化、支持率低下を招くことになります。ジレンマは、さしあたりまた大抵は自己原因によるもの。約束の時間を守れない言い訳は無用です。
 ハイデガーが言うとおり言葉は「存在の家」なので、予測と計算不可能な(自然や社会、国家の)存在が如何にをどう顧客や国民に諒解させるか、すべてはそこにかかってきます。それは、倫理的には小さな約束の言葉をしっかりと守ることで、取引相手に対する商い人としての精一杯の誠意、或いは民意に応える政治家としての断固たる決意を行為で示すことになるからです。大学のキャンバスは、試行錯誤が許されるその予行演習の場です。いずれであれ、言葉と行為の関係を存在の比喩言論として見れば、比の一の値を探すことになります。半端のある相当算(還元算)を応用して言えば、通分可能な存在の諒解ポイントを探るということ、目下の共通課題はそれに尽きるでしょう。
 言葉と行為のジレンマを解こうとすれば、一歩後退して、小さなことを蔑ろにしないことです。但し、どれでもいいというわけではない。小事が大事な比の一となるのはどれかを慎重に見極めつつ、如何にの一歩を問い進める他ないと思われます。社会評価の単位となる整数および分数を探し当てること、時間係数を経験妥当な数値にまで絞り込むこと(時宜を得た発議・タイミングは格率論)、これが自己最適化のノーハウでしょう。異論・反論があればお聴きします。
 等々と考え、次回のハイデガー研究会(1月20日)以降2月からは、手始めの一歩として、「洞窟の比喩」で知られる「プラトンの真理論」から読み始め、「ヒューマニズム書簡」へと読み進めるのが妥当かと思われます。ご承知のように、洞窟の比喩はプラトンの国家論の秘密ですが、私たちの共通した関心であるダルマの「壁観」とも深く関わる問題でもある。ので、参加希望者は各自ご用意ください(なければ、原書のコピーはこちらで準備します)。ドイツ語やギリシャ語の知識がなくても構わない、"Wegmarken"の邦訳持参で討議に参加することは可能です。「哲学なんかいらない」と思っている人は、手ぶらでどうぞ。もちろん、初心者は大歓迎です。

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2013年1月1日火曜日

年頭所感:ゼロと一で染め上げる、次世代の家族社会学

【1月31日(木)更新】
皆様、明けましておめでとうございます。最愛の人・家族の大半を一度に奪われ多くの大事な物を一挙に失った、あの東日本大震災と原発事故の生々しい、悲惨で無念の記憶が去らぬ中でのご挨拶、余計なことは申さぬ所存です。
昨年末には衆議院選挙あり、結果は「大山鳴動して鼠一匹」でしたね。機首が傾き急旋回して軟着した先は、いつか見た懐かしく退屈な故郷、子猫や鼠一匹でぎくしゃくするだけの日常世界でした。2013年は干支で蛇年だそうですが、胎蔵の智慧を知る牛飼いの杖(または星に導かれ、ゼロ歳児の未来権利の在り処を探り当てる羊飼いの杖)でこれを迎え打つのみ。
今年は、失うものはもう何一つない、安心してゼロ或いは一から始めることができる、自由と権利の存在を諒解しあう、聖なる家族と宗教社会学の元年としたい。わたし自身もシングルを止める覚悟で、三足の草鞋を履いたまま、未明の明日へ小さな一歩を踏み出すことにしました。
少子化と高齢化・非正規採用に悩む世代のために、我が身を呈して次世代の家族社会学を目指したい。

追記:ゼロと一は、命を営む存在にとって基本中の基本、男と女のバイナリモードです。核家族化した今日の社会では、孤独の人を助ける同世代人による家族代わりの共助システム、ジェンダーの役割を最適化可能な、新たな「世代の家族社会学」が今後必要となるでしょう。もう誰にも、失われた20年の世代なんて言わせない、そうでしょう?
ヒント:最近イギリスの科学誌『バイオロジーレターズ』(電子版、2013)に掲載された「アブラムシ、おばあちゃんとタッグ 外敵から巣を守る」が参考になるでしょう。但し参照するには、朝日新聞デジタル版への登録が必要です。
→ http://digital.asahi.com/articles/TKY201301310066.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201301310066


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