2013年2月5日火曜日

実体が無いのに、豊かさをどうやって実感するの?

【9月2日(月)更新】
 がむしゃらに働けば、豊かになるというわけでないことぐらいは、誰もが実感していることでしょう。働く人のすることが、期待値と経験妥当な値を満たしているかどうか。それが社会行為の適性(=諒解関係の指標)を計る二針の試金石です。矢を射ることに例えて言えば、洗練された言葉と的を得た行為でないと、何を語り何をしても、豊かさの実体を手にすることはできないだからです。
 あとは、囮(おとり)や騙しの金融派生商品(デリヴァティブ)に手を出さないこと、話題のモルヒネ経済政策の謳い文句には惑わされないこと。他でもない、「自分」のために働くのですからね。用心することに越したことはない。
 では、自分とは何でしょうか?考えるヒントは、前回もお話した、比の一の値で計られるものです。君たちが、整数倍で得をするか分数倍で損をするかのいずれであれ、豊かさの実感はそれ次第で増幅します。実体が無い(貧しい)にも拘らず、自分は豊かだ(満足している)という人さえいるのです。別に、清貧の徳をお勧めしているわけではないですよ。それでもご覧、貯金がゼロでも自給自足で誰にも依存しない、自由闊達な自分が、ほら其処にいる。ほらっ、此処にもいる。
 誰かに付く(師事する)としても、デダクティブ(演繹)やインダクティブ(帰納)だけでは、所詮自分の「帯に短し襷に長し」です。ならば、パースが唱えるアブダクティブ(仮導推論、仮説設定)ではどうでしょうか?ただ、投企するのは自分です(sich entwerfen)。景況の好き嫌いで投機的に走って、自分まで売り飛ばされないよう、くれぐれもご注意ください。放っておくと、「存在の忘却」(ハイデガー)は避けがたい。

Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights ⓒ all reserved, by the Institute for Rikaishakaigaku