2011年7月18日月曜日

熱いうちに叩かれよ、「我思う」為政者への勧め

Schmiede Eisen, solange es heiß ist. ein Rat für den Staatsman, der selber denkt. 
【9月8日(木)更新、付記】
新聞各紙の任意的報道(不特定多数を対象とした怪しげなアンケート調査)による、人気動向を気にする必要はない。それより、菅直人さん、もしあなたがドイツのメルケル首相に共感し、本気で脱原発は必要だと「わたしも思う」と言うのであれば、ご自分の主観性の格率を高めて、国民の誰もが納得する経験妥当(実現可能)な政策を打ち出さなければならない。客観的に有用なデータを収集するためには、まず抵抗する官僚たちを上手に使いこなす知恵が必要とされる。その為に、経済界の不安を払拭できるエネルギー政策転換の具体案(選択肢のある複数案)を提示しないといけない。そうしない限り、到底国民的コンセンサス(共感と同意)は得られない。この点では、7月12日(火)のBP Netmailで配信された大前氏の提言は有効且つ適切である。→ 大前研一:原発再稼動への合意形成プロセスを提案する [ BPnet mail 07/12 ]
 政治家としての閃きを思いつきだと思わせない工夫があなたには足りないか、周辺がうるさすぎて、政治家として「我思う」あなたの真意が伝わってこない。国難に際して思うところが私念でなく政治理念であると説得する何かが足りないか、倫理感の麻痺した言論人(ジャーナリズム)の喧噪だけが目立ちすぎて、震災復興内閣の真剣さが伝わってこない。「我思う」あなたの国家ヴィジョンを捨ててはいけない。むしろヴィジョンを持つ指導者は、自らの意志を鉄(マテリエ)のようにして、まだ熱いうちにこそ鍛えられ、しっかりと叩かれて初めて、国民に仕え働くモノ(為政者)としての見事な形状(フォルマ)が得られる。もちろん、内外の脅威により形状が崩れ暴走しないよう、天地の二重の扉に「閂」(かんぬき)を通した安心の門としなければいけない。こうして、安心して住める美しき故郷(生活世界)再建の礎となし得よう。脱原発を主導し、原発の利権を巡り経済産業省の背後で暗躍する面々を叩けるのは、差し当たり今はあなたを置いて他にはいないように見える。「我思う」あなたの脱原発ヴィジョンを曖昧にせず、むしろ確かなものとせよ。主観性を経験妥当な諒解ゲマインシャフト関係の要件に高めるために、国家戦略室にブレーンを集めてもっと(ヴェーバーとハイデガーを)勉強しなさい。有無を言わせず国民にはっとさせ「なるほど」と思わせる(共感をもたらし説得できる)かどうかは、真摯に「我思う」為政者の優れた主観性に根ざした社会政治言論の美学的課題である。
 考えるヒントは幾らでもある。例えば、先日ドイツのヴェルト誌(welt.de)に、Steuerbuerger氏の “Einklappen”という書き込み記事(ツイッター)が掲載されていた。これはその一週間前に掲載された福島第一原発事故の日本側レポートに対する、ドイツ市民を代表した一読者としての率直な意見である。
“In Japan wurde untertrieben, in Deutschland übertrieben - gleicht sich aus.”
原発のリスクが「日本では過小に、ドイツでは過大に扱われてきた。これ(両極端)は調整され均される」必要がある。とすれば、その調整ポイントが何か・どこに有るのかを、しかと冷静に考えよという提言であろう。したがって、単なるシンメトリー論をいうものではない。過小と過大に評価ポイントが別れるのは、紛れもない言語感性の違いにある。嫌なものからは目を背け、(ばれない限り黙して語らず)言わず終いの一方と、何であれ「語り尽くされる」(zer-reden / Heidegger)他方とで、言語文化の隔たりが余りにも大きい。厚生労働省の抱える問題については、菅首相もよくご存じだろう。しかし肝心の障壁は、巨大な利権の絡む経済産業省とおつむが旧態依然の文部科学省である。特に後者の(言語制度)改革が、明日の日本を左右しよう。菅さん、僭越ながら進言したい。何事にも怯まず、泰然自若として大なたを振るいなさい!人気は結果として後から付いてこよう。


付記: その後首相が菅氏から野田氏に交代したが、誰が首相であろうと、上で述べたことは妥当する。「回転ドア」の首相と揶揄されないためにも、後継者はしっかりと自分の肝に銘じてもらいたい。

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2011年7月3日日曜日

主語がない・顔を見せない、述語論理の玉手箱

Fehlendes Subjekt und maskiertes Gesicht, berichtet aus der General-versammlung TKW
【7月9日(土)更新】
原発事故を起こした注目の東京電力株主総会が、6月28日(火)千代田区の某ホテルで催され、それとは別に報道機関向けの中継が東電本店の大会議室で開かれた。田原総一朗と佐高信、どちらが真っ当な評論家であるかといった議論に組みするつもりは毛頭ないが、相変わらずの「饒舌ぶり」(Gerede)には辟易する。それでも「曖昧さ」(Zweideutigkeit)に徹する企業側の言動を明るみに出す必要上、殊更に無視は出来ない。毎日新聞社の記者浦松丈二氏は、企業批判の急先鋒として知られる佐高氏の言動を織り込みながら、特集ワイドの詳細を逐一報告している。報道は一部意図的に制限されており、読者の「好奇心」(Neugierde)を煽るに十分だが、舞台上の人物(経営陣)の「顔(Gesicht, Persona)が見えない」よう工夫され、映像の焦点が絞れないように予め仕組んである(ドイツ語表記は私、以下同様)。
淡々と年次報告をする勝俣会長の言葉を遮るように、緊急「動議」(Antrag)が提出される。「主語がなく責任がはっきりしないおわびだ。勝俣さん、責任を感じているなら議長は務められないはずだ。信任をとっていただきたい」(傍点は私)。議長不信任の動議を巡り、最初の議決が行われた。「賛成の方は挙手願います」(議長)に、大勢の人が手を挙げた。すわっ解任か?と思う暇もなく、続いて「反対の人」の挙手が求められる。こちらも大勢が手を挙げた。ところが、「反対多数です」(議長)と、あっさり否決されてしまう。不思議である。「どうやって議長は票を数えたのだろうか。会場に入りきれず、別室で映像を見ている株主も多数いるのに」と、怪訝な顔で記者はメモする。説明責任を追及すると、「東京電力の大株主には東京都のほか、銀行、生命保険会社など大企業がずらり。議長は会社側が、大株主から過半数の委任状をもらっていることを明かした。要するに、採決は“茶番”なのだ」。笑劇(Schwank)にはまだ選択肢の余韻を残すか議論の余地を示唆する芸があるが、この類の茶番は後味が悪い。最初から結論は決まっており、議論の余地は全くない。あとは反対者の口を封じるだけの、悪ふざけ(Posse)の演出に近い。脱原発の第三号議案も、同様の仕方であっけなく否決された。注目された歴史的総会は、こうして「壮大なすれ違い劇」に終る(引用句は浦松報告、脚注1参照)。総会屋でガードされた大政翼賛会的な以前のシャンシャン総会に比べると、株主の発言権が飛躍的に向上した今日的状況はまだましだと、お茶を濁してはいけない。「言語はその世界の限界である」(ヴィトゲンシュタイン)。
古来日本語システムの世界では、「主語がない」か明記されないケースが多い。あっても、主語と述語が連動しないので、発言の真意が常に曖昧である。発話者の「顔が見えない」から、責任の取りようがないと非難される。政治と経済に宗教を加えた三つ巴の社会言論混迷の主たる原因は、日本語教育の欠陥で裏付けられようか。例えば、屈折言語の欧米語と異なり、膠着言語である日本語動詞の活用形は、「人称変化」(Flexion der Person)を知らない。述語関係は、主語の「人称」(Person)とは無関係に用いられ言い済まされる。確かに、曖昧な言葉で決着を図られると、余計に政局は混迷するばかりである。足りないところは、英語やドイツ語の外国語教育で補ってもらいたいでは、余りにも無責任であろう。では、なぜ文部科学省は日本語動詞の活用に人称変化を導入しないのか、グローバル時代に見合った国語改革の余地は幾らでもあろうにと、疑問百出である。日本語文の主語・述語関係が、場面と文脈依存の文章論(読解技法)一点張りでは、もはや時代遅れではないかと、言われて久しい。当初、鈴木孝夫氏の「共感的同一化」論は弁明的で、私には後ろ向きの議論でしかないように思えた。しかし、示唆に留め完結しない俳句のように、「言い残しの部分を補うのは読者の積極的な感情移入」(positive Einfühlung)であるとみる成瀬武史氏の解釈(『ことばの磁界』)に触れ、最近では従来の考えを改めざるを得なくなった。リップスの『美学の基礎付け』は、その点で日本語改革への貴重な礎になるかも知れない。西洋譲りの主語論理にはない、述語論理の玉手箱が魅了する、至高のカスタム言語ゲマインシャフトによる諒解行為世界(Entwurf einer am Einverständnishandeln orienteirten Sprachgemeinschaft als letztmögliche Aufgabe der Ästhetik)を見たいものだ。 
生活世界では、主語述語関係がはっきりしないと、確かに困ることが多い。例えば、国内・海外で商いをするに、売り手・買い手の主観性(動機理解)を曖昧にした侭では、「経験の妥当は諒解の妥当」(ヴェーバー)という経済社会の鉄則に迫ることは出来ない。思索するにしても然り、「世界内的存在」の位相を読み損なうと、表層の「世間体的主観性」(mundare Subjektivität)に「先立つ」、より深い層にあると主張される「超越論的主観性」(transzendentale Subjektivität)(フッサール)の陥穽を見破れない。いずれ、「先立つ」モノの働きと人称のマスクした存在者との関係が問題となる。いざ東洋的主観性の、「述語となって主語とはならぬもの」(西田)を論じるにしても、「根源語」(ブーバー)である我と汝・我とそれの関係、「芸術作品の根源」(ハイデガー)は避けて通れない討議課題となる。「無人称」と揶揄される日本語世界だが、社会学的「共感論」からの読み直しによって、新たな地平が空け開くかも知れない。働きのみ有って人称が無いか隠されている(己を隠す)ことの意味がどうなのか、国風文化(禅)の原点に立ち帰って考えてみる価値は有ろう。その中に、垣根に薺の花を咲かせるか、隠れた主語(顔)を表舞台に引きずり出し一喝する、述語論理の玉手箱が隠されていよう。経済産業省と原発企業の背後に隠れた面々を本気で叱ることが出来る(脱原発を推進できる)のは、お遍路を済ませた市民運動家肌のこの管首相以外にいないかも知れない。この意外性が、日本の政治の歴史(社会言論史)を塗り変えるかも知れない。あくまでも予感である。
一言お断りしておくが、私は東電総会に於ける佐高氏の発言に全面的に賛同しているわけではない。言葉の端々に「縁」を見た、それだけである。二十年前の私であれば、憚らず追求する側に立っていたに違いない。大島先生に出会い禅に学び始めたのが二十年前、それ以来今日に及んで「主観性の世界(フッサール)と芸術作品の根源(ハイデガー)」を研究テーマに美学の課題と取り組む中で、以前の私とは「別様に考える」必要性を感じている。学生諸君も、私の社会学的共感論批判と一般社会学言論講義(序論)への取り組みの微妙な変化を、感じ取ってくれていることと思う。
卒業してこれから就職しようとする学生諸君が、自分に科せられた生涯の学習課題して、帰属先となる公益法人や営利法人の「法人」(juristische Person)とは何かを、レポート課題にしてもいい。それもまた、思慮に値する立派な「主語」(社会的自己の要件)である。これを機に、会社や企業のマスクしたヒトの存在を如何に理解すべきか、身構える擬制的行為を存在(言葉)の地平から捉え直し、それも所産(最終生産物)からでなく能産的無の《根源》から問い質すこと、最悪の想定からのみ、最善のシャンス(可能性)が生じることを考えよ。それをもって「善悪の彼岸」に、自分の悟性を使用して考える手掛かり、峠(存在の彼方)へと跳躍する足掛かり(シャンス)として欲しいと切に願う。君たちはどう考えるだろうか、率直な意見を聞きたい。

脚注1: 浦松報告の詳細は、以下のリンクを辿り参照せよ。
→ http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110630dde012020004000c.html

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2011年6月21日火曜日

『水瓶いっぱいの祝い酒』 (聖書講話)

Der bis jetzt aufgesparte gute Wein  in den Wasserkrügen

テクスト:イザヤ書55章1-2節、ヨハネによる福音書2章1-12節

0.前置き:
 東日本大震災以降の三ヶ月間、政治についてのブログばかりで、読者もうんざりであろう。そこで今回は、被災者の受けた傷を癒す意味もあり、「薬用の茶」(岡倉天心)の元となる薬用の葡萄酒の話をする。例外的に、ホームページ掲載予定の最近の説教から一部をここに公開する。ブログのために多少手直して講演調に書き直し加筆しておいたので、鬱積した気持ちの切り替えに一読され、少しでも復興のお役に立てれば光栄である。(9月26日更新、タイトル一部修正)
1.導入:
 今朝の話は、クリスチャンだから禁酒禁煙のはずだというピューリタン的発想や聖人伝説の固定的イメージを覆す、不思議な象徴的事件である。
2.聖書釈義:
(1)事の発端は「三日目に」婚礼へ招待されたこと。イエスの母マリアが同席、(用意した=蓄えの)「ぶどう酒がなくなってしまったので、母はイエスに言った、『ぶどう酒がありません』」。直訳すると、「彼らはぶどう酒を持っていません」、つまり婚礼の主催者であるこの家の「人たちにぶどう酒の在庫がありません」。これはぶどう酒の在庫不足から来るもてなす側の緊急事態を報告しているが、超能力の「あなたの力で何とかしてください」と要請している訳ではない。それにしても、母に対するイエスの答えは奇怪千万、「婦人よ(口語訳では「女よ」)、わたしとどんな関わりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません」。「婦人よ、女よ」などと言うものだから、「わたしとあなたはどんな関わりがあるのですか」と冷たく聞こえる。実はそうではない。ぶどう酒が無くて困っている生活世界の事態は、「わたし[は有る]と何の関わりがあるのです」と言っておられるだけだ。但しそれだけなら、「わたしの時はまだ来ていません」と言われるのも何かおかしい、ミスマッチである。実はイエスにとって、ぶどう酒は大切な象徴的意味を持つ。母は自分が冷たくあしらわれたのではないことなど分かっているから、深い繋がりは分からないままに、召使いたちに「この人が何か言いつけたら、その通りにしてちょうだい」と言っている。その家には、「ユダヤ人が清めに用いる石の水瓶が六つ置いてあった。いずれも二ないし三メトレテス入りのもの」だったという。1メトレテスは39リットルなので、最大で三倍の117リットル、しかもそれが六つだから、合計で702リットルもあることになる(清酒一本で1.8リットルだから334本分に相当。1樽で何リットル?、ビール小樽で15リットルだから、およそ50樽分に相当)。いくら貧しくても、ユダヤ人は婚礼の飲み食いにだけは物惜しみしない・祝い酒をケチらない。だから、祝い酒の不足は、主催者にとって不名誉な失態に繋がる。
(2)イエスが言われたのは単純なこと、「水瓶に水をいっぱい入れなさい」。そこで、召使いたちは目一杯水を入れた。更に、「さぁ、それを汲んで宴会の世話役のところに持って行きなさい」と命じられる。するとどうだろう、「世話役は水から変わったそのぶどう酒を味見した」。書いてはないが、相当美味しかったとみえて、客は褒め言葉を惜しまない。「人は誰であれ、初めによいぶどう酒(カロン・オイノン=一級酒)を出し、酔いがまわった頃を見計らって劣ったもの(エラッソー=安酒)を出すものですが、あなたはよいぶどう酒を今まで(=最後まで)取って置かれました」。客からは、イエスは主催者の家の一人と見なされている(身内の祝儀?)。
 それにしても、何故ぶどう酒の奇跡か? 先ほど、実はイエスにとってぶどう酒は薬用としての、大切な象徴的意味を持つと言った。ヨハネはその理由を深追いせずに、一言だけコメントする。「イエスはこの最初のしるしをガリラヤのカナで行って、その栄光を現された。そこで、弟子たちはイエスを信じた」、初めて信じるようになったのである。「しるし」とはギリシャ語でセーマイオン、それは今日で言うところの「記号」であるが、社会学的に「しるしを行う」ことは時間的意味連関に貫かれており、主観性の行為論的な発話動機を異なる仕方で構成している点に、注目しておきたい。
(3)それにしても、最初の10日間の締めくくりに婚礼の奇跡物語が重要だったのか。古いエジプトの言葉(コプト語)で書かれた外典福音書断片に、この話が出てくる。そこでは、マリアはこの時結婚した花婿の親の姉妹だという。紀元後2~3世紀頃の言い伝えでは、もっとはっきりしている。花婿はゼベタイの子ヨハネ、つまり第四福音書を書いたと言われるヨハネその人である。このヨハネの母親(=ゼベタイの妻)がサロメといって、イエスの母マリアと姉妹関係に当たる。すると、イエスとヨハネまたヤコブの兄弟とは、従兄弟同士に当たるという伝説が広く語り伝えられている。血縁関係の真相はともかく、カナでの奇跡が持つ本当の意味は別のところにある。
(4)それにしても、「わたしの時はまだ来ていない」とは、それ自体何を物語るか。父なる神の栄光を現す時の秘密と言われる。十字架と復活は、人の子にも「死ぬに時あり、生きるに時あり」、ヨハネ黙示録で預言される「小羊の婚礼」を目指す出発点(status quo)に過ぎない。「わたしの時はまだ来ていない」、それはマリアを初め弟子たちにとって何を意味するか。ヨハネ福音書が記録している最後の説教を読めば一目瞭然。「最後の晩餐」の後でなされた最後の説教は、実に13章から17章まで延々と続いている。そのメッセージは只一つ、「わたしはまことのブドウの木、わたしの父は農夫である。豊かに実を結ぶよう父は手入れをなさる。わたしはブドウの木、あなた方はその(実をつける)枝である。あなた方が豊かな実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる」(15:1-8)。聖書の世界は、比喩的言語(メタファー)で一杯である。ブドウの実は食べ物と言うより飲み物、ぶどう酒にして飲むものである。その直後にペトロに対してイエスが言われた言葉を思い起こすことで十分。戦いの「剣をさやに収めなさい。父がお与えになった(ぶどう酒の)杯は飲み乾すべきではないか」(18:11)。小羊の婚礼を喜び祝う、自らの「終わり」を先取りした祝い酒のしるし行為と言えよう。
3.主題講解:
(1)弟子が師に出会い学び合う学舎に、ぶどうの喩え・ぶどう酒は欠かせない。男と女が出会って契りを結び祝福し合う、婚礼(新たな小羊のカップル誕生の風景)をイエスは単純に喜ばれる。そこでもぶどうの喩え・ぶどう酒は欠かせない。清めの薬水を飲んで心身の汚れが取れなくても、霊の洗礼を受けてみ言葉(裂かれた体を象徴するパン)を食し自分の十字架を背負って生きるも、ぶどう酒を飲み干す覚悟がなければ長く続かない。あれ荒んだ心に水と油を注ぎ燃やすものが聖霊の働きである。「人の子の体(=み言葉)を食し、その血(=霊の命)を飲まなければ、命はない」(ヨハネ6:53)。これはメタファーであって、アレゴリーではない。薬用の象徴として契約の血(=贖いのぶどう酒、霊の命)を飲むこと、これがヨハネ神学の一貫した中心メッセージだ。贖罪(しょくざい)思想は血なまぐさい話だが、歴史的に薬用茶や薬師伝承の背景となっている。象徴はあくまで、時間意味の保存形式である。
(2)キリスト者の交わりは独身の集まりでもなければ、孤高の人・恍惚の人・聖人たちの交わりでもない。伝説とはおもしろくもあり恐いものでもある。すでに二世紀には異端的な伝説が生まれる。花婿のゼベダイの子ヨハネに向かって、結婚しないようイエスが忠告したという(グノーシス主義的『ヨハネ言行録』)。中世の禁欲主義的カトリック世界では話がもっと極端にエスカレートし、花婿のヨハネは結婚式は挙げたけれども、新妻を残して自分はイエスに従い、その生涯を独身で通したという。かつてイエスは次のように言われたことがある。「洗礼者ヨハネが来て、パンも食べずぶどう酒を飲まずにいると、あなた方は『あれは悪霊に取り憑かれている』と言い、人の子(=わたし)が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(ルカ7:34)。いわゆる風評である。イエスは私たちの祝い事(婚礼)を共に喜び、疎外された人々の悲しみや苦しみを共にし、一緒に飲み食いされ一緒に寝泊まりされたではないか。それら一切は父から授かるぶどう酒を、最後の一滴までも飲み干すためであった。
 私たちの場合はどうか。平和を願い戦争行為に反対するも、東日本大震災で被災した地の人々を助けたり原発反対を唱えるにも、苦いぶどう酒を最後の一滴まで飲み干す覚悟が必要だ。人生が抵抗精神で燃え尽きれば、思い残すことなどない。それに対して、燃え滓の人生ではしょうがない。それ以上に辛いことは、生煮えか燃えること(心を滾らせるモノ)自体がない・燃えることを忘れた未消化の人生ほど、退屈極まるか苛々するほどに、忌まわしいものはない。「わたしの時はまだ来ていない」とは、自分に安全を確保する老後保険か退路を断つ仕方での乾杯の決意表明であるよりも、ぶどう酒を祝い酒として飲むに時あり、別れ酒として飲むに時あり。自分の終わり(可能なる死)への後追いでなく、死への先駆的な覚悟性が問われている。この点で、初期ハイデガーの哲学と我が師ユンゲルの「十字架の神学」には、相通じる思いがある。
人生の三つの節目或いは生活世界(Lebenswelt)のクライマックスを象る三つの出来事、誕生と婚礼と葬儀(という「縁」)を通じて自分たちの心身を、熱く或いは静かに燃やすものが何か、その都度人は自分の足下(自分が佇む現に其処、超越論的主観性の「淵源」)を試される。西方の教会では聖霊は「熱風」であるが、西方を追われ東方に逃れて生きたネストリウス派の教会(景教)は、いみじくも聖霊を「涼風」と別様に喩えている。「冷たい理性と感情文化」とは西洋人の感覚だが、理性統治の難しい東洋人(日本人!)にとって、崇高な感情や霊の働きは熱いとは限らない。むしろ大悟を迫るのは、熱い思いを冷ます涼風の働きであろう。東洋では西洋と異なり、霊性は冷静(vernünftig)である。混迷を極める政治と宗教を尻目に、理性と感性の仕切り直し・再定義が必要とされる所以である。いずれであれ、自分が一番大切にしているものが何か、上限(言葉)と下限(無)に対する二重の備え、身の安全と平和戦略(相互保証のある体造り)の如何にを容赦なく考えさせられよう。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011, by 宮村重徳, the Institute for Riakishakaigaku

2011年6月4日土曜日

「諒解」なき政治の混迷、曖昧な言語経験のつけ

Die Armut der Politik ist in der Vergessenheit des öffentlihchen Seins.
【6月7日火曜日更新】 
死を恐れず、我が身を危険に晒してまで、原子炉の冷却を実行したのは誰なのか。饒舌な政治家のあなた達ではない。名もない末端の下級官僚たち、市町村の消防隊員や自衛官たち、加えて一私企業の東電社員たちではないか。如何なる風評にも狼狽えない、断固として信念を貫く政治家はいないのか。未曾有の国難を誰が予想していたか、言ってもらいたい。いったい誰が、自分なら場当たり的でない政策実行を断固としてなし得たはずだと、胸を張って言えるのか。誰もいない、一人もいない。谷垣さん・山口さん、聴いておいでか?
一度は、冷却用の海水注入の「中断」を言った・言わないの喧噪の挙げ句の果てに、原発所長独自の判断で、実際は「中断がなかった」ことが5月26日に判明するや否や、「いったい私は何だったのでしょう」(斑目原子力安全委員会責任者)で話は宙に浮いた。この度は、6月2日の代議士会前夜に、菅首相と鳩山前首相との間で交わされた合意文書の曖昧な「確認事項」で、退陣の時期について言った・言わないと大騒ぎ、文面にない退陣時期についての「期待感」を込め言い含ませて、「約束が違う、裏切った、ペテン師だ」と、被災者を度外視した果てしない泥仕合が続く。言葉にない(文面に明記されていない)ことで言い争うのは、愚の骨頂である。双方に、政治的存在(politisches Wesen)の義が余りにも曖昧で、不透明のままにやり取りされている。それは、社会言論の要が分かっていない、厳密な意味で「諒解」されていない証拠である。管首相の不手際・不器用さを責める前に、鳩山さん自身の早期隠退こそ望ましいという声さえ聞こえてくる。不幸なことに、鳩山さんは沖縄の普天間基地問題でも同じ過ちを犯している。不用意な言葉を漏らし、それが言質に取られて、沖縄を巡る政治状況が一変した問題をもうお忘れだろうか。せっかくの仲介がお節介に転じ、「いったい私はなんだったのでしょう」(ご自分の言葉)では、余りにも悲しい。鳩山さん、聴いておいでか?
新聞紙上に公表された合意文書の「確認事項」を読む限り、退陣の条件はそれなりに理解できるとしても、肝心の退陣の時期については一切触れられてはいないのだから、「約束が違う、裏切った」という発言はまるっきり見当違いである。自分の期待感(主観性)だけで相手を決めつけてはいけない。ただ、鳩山さんのお気持ちとしては、なるほど文面にはないが、何度もあなたに口頭でお伝えしたとおり、早期退陣の「期待」を理解し速やかに実行してもらいたい。つまり、行間の心情をくみ取り、発言の真意を理解してもらいたいということだろう。
しかし、「諒解」は「暗黙の了解」ではない。(相互)主観的に当てにされるだけの、曰く付きの「合意・協定」とも異なる。マックス・ヴェーバーに拠れば、「諒解行為は、合意した協定文書が無くても、有るかのように振る舞うこと。つまり、「他人がすることに予想を立て、それに準拠して行為すれば、経験的に妥当する蓋然性が客観的に存在する」という確信に基づいてなされる、妥当な「見積もり可能性」のことである(『理解社会学のカテゴリー』第6章、私訳)。菅さん、聴いておいでか?完読をお薦めする。
御尊父の鳩山一郎氏から受け継がれた「友愛」の精神にも拘わらず、心情倫理一徹だけでは政治結社を意の侭にすることは出来ない。ましてや、言葉にないことで政治家の責任倫理は果たせない。ここは、元代表の小沢氏自身が言うように、「今までになかった(退陣の)文言を取り付けた」のだから、それでよしとし十分とすべきではないか。
政治家にとっては、国民の「期待」を予想し、それを叶えることが第一要件である。政治家自身が舞台の主役であってはいけない。この点では、国民に奉仕する立場の官僚に見習えである。「官僚依存からの脱却」を詠うのであれば、聡明なエリート官僚以上の技巧や知恵を結集しないといけない。原発の利権(既得権益)に絡む組織(省庁の官僚・政治家・電力会社、三つ巴のの癒着関係)は、鉄壁である。これについては、次回論じる。
民主党が「官僚からの脱却」を願うなら、内部亀裂を恐れずに、先ず国民を味方に付けよ。その為に、一時も「主権在民・国民主権」の原則を忘れてはいけない。政治に於いては、一にも二にも市民・国民が主役なのだから。政治家諸君には、自らの言葉の未熟さを恥じて「謙る」ことを学んでいただきたい。不信を払拭できず国民に期待されない政治家は、肝に銘じてもらいたい。小沢さん、聴いておいでか?たとえあなたの目からするとぼんくら首相でも、手を惜しまず支えるべきであって、いつまでも背後でごねている印象を国民に与えるのは賢明ではない。何よりも、謙りの「証」として期待される、被災地復興と被災者支援の断固たる政策実行を、関係者各位にお願いしたい。
日本政治の脆さ・暗さは、言語経験の未熟さ故である。日本の社会言論は、啓蒙主義以前の未成年状態の段階にあり、未だに脱却の見通しが立たない。せめても態(わざ)とらしくない、自然な仕方で「諒解」し合う言語ゲマインシャフトの形成が強く望まれる。冷たい理性と感情文化、「上限の言葉と下限の無」(大島淑子『禅は別様に考える』)について考え抜く際に必要となる、天地開闢以来の「二重の扉に閂」(かんぬき)を付ける実践理性の政治美学的課題を見据えること、曖昧な希望的観測(主観性)の押しつけや恣意的に見積もられた「想定」枠(思惑通りの客観性)を捨て、怪しげな主観性の最終産物を括弧に入れて、「禅譲」を迫るにしても後追いでなく先駆的に身を挺して模索されることを期待したい、政治的情熱は捨てることなく冷静に討議され、真剣に己を捨てる・「已(すで)にとする」道(ケノーシスの実践)を平常底とするよう要請したい。あとは、仲介の労が無駄ではなかったと誰もが告白できるような、日本に於ける政党政治の新たな始まり・諒解ゲマインシャフト関係への「自己刷新」(Erneuerung des Selbst)を心より願うのみである。
政治の貧困は、主権が帰属する「公共的存在」の忘却にある (Die Armut der Politik ist in der Vergessenheit des öffentlihchen Seins.)。公共的存在とは、他ならぬ国民の存在である。その国民の目線では、否が応でも、不安の余り「公共性のマスクしたヒトの現存在」(ハイデガー)を顧みるに時を惜しまず、被災者のゾルゲ(憂慮)の理解と解決に万全を期すことに於いて、あなた達政治家の手腕・(政局に溺れない)政治の正義を裏付ける美徳(politische Tugend)が問われることになる。「黒子」(Souffleur, Kastengeist)に徹することがお嫌いな面々には、即刻バッチを外し(国会議員を辞職し)ていただくほかにない。復興が待たれる状況下での党利党略まがいの喧噪には、国民は「うんざりしている」(angeekelt sein)のだから。官僚依存からの脱却を夢・幻に終わらせないためには、どうしたらよいのか。官僚を黙らせ共感に追い込むほどの、インパクトのある政治劇が考えられよう。
見応えのある政治劇は、「社会言論の美学的課題」 (Ästhetische Aufgabe der Sozial-Rede)である。国会議員の諸君、せっかくなら、国民が納得し魅せられる「政治劇」をしなさい!志位さん・福島さん、聴いておいでなら、ぜひ仕掛けてもらいたい。国政刷新の仕掛け人には、渡邊さん・田中さんが一番適任だが… 国政を預かっている諸君が日本国民の叡智を結集して、天災・人災に負けない・挫けない国土復興のモデルを提示することで、グロ-バル世界を感銘と共感へと呼び込む得心の劇、不朽の歴史的価値を人類史の記憶に刻む、忘れがたい政治劇を演じてもらいたいと切に願う。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011, by 宮村重徳, the Institute for Riakishakaigaku

脚注: 文中「~さん」で言及した政党関係者(党首)の人名は以下の通り、
自由民主党(総裁) 谷垣禎一、民主党 菅直人(前代表:鳩山由紀夫、元代表:小沢一郎)、公明党 山口那津男、日本共産党 志位和夫、社会民主党 福島瑞穂、みんなの党 渡邊喜美、新党日本 田中康夫

2011年5月12日木曜日

言論の正義と美学のジレンマ?、水素爆発の暗影

Die Gerechtigkeit der Sozial-Rede ist die politische Aufgabe der Ästhetik.
【5月29日更新】
これまでに、「言論の自由」が話題になることはあっても、「言論の正義」について本格的に論じられたためしがない。はたして、言論の正義はあるのかないのか、あるとすれば何か、最近の事例を元に考えてみたい。例えば、東電叩きの例が参考になる。何か事故が起きると責任者が問われるのは当然としても、一企業の東電だけが悪者であるかのように、同じ論調で各紙は報じるが、国策として推進してきた歴代の政治家たちの責任は問われず、すべてが頬被りの侭である。管内閣の政治手腕が問われるのは当然としても、ジャーナリズムによる個人攻撃的・中傷的・人格誹謗的な「罵詈雑言」にはあきれ果てる。なるほど非凡でなく凡人の、つまり「普通の人」ながら真摯に薬害エイズ訴訟に取り組んだ苦労人、その管首相が自分なりに精一杯頑張っているのだから、国難の今私心を捨て彼を支えるのが常識であろう。与党野党を問わず、自分も「首相になりたい症候群」の政治家たちは、足を引っ張ったり揚げ足取りの愚行を重ねるだけで、みっともない(「笑劇」にも勘所の「美芸」があろう)。国家戦略的「復興会議」と言うもパフォーマンスをでず、「言論の正義」を踏まえた政治哲学の欠片も伺われない。政策的言行に自信なく首尾一貫性がない、捻れ国会での右往左往ぶりの報道だけとは、実に寂しい・困ったものだ。所詮「政治は妥協」というも、言行不一致ではどうしようもない。だからといって、言行一致は共産党だけではないかと言う、党利党略の肩入れをするつもりは毛頭ない。いずれも、「帯に短し、襷に長し」のミスマッチで、たいして変わりはない。
さて、我が国に於ける社会言論の不毛さ(未成年状態)は今に始まったことではなく、明治維新以来の負の遺産である。伊藤博文や中江兆民にしても然り、啓蒙主義の世界に渡り法の精神(契約思想、憲法と民主主義)を学びはしたが、短期間での学習には限界があった。知識の大半は鵜呑みされ、曖昧さと無理解に終始している。吉野作造の民本主義でさえ、国民の「身」に付いたものでなかったか、せいぜい上着を羽織るように「身」に纏ったに過ぎなかったから、多くの賞賛と共感を呼んだにも拘わらず、「言葉」(の暴力)に躓き破綻するも時間の問題であった。その証拠に今でさえ、国会審議で象徴されるように、相手が語ることを誰も聴いてはいない。「あいつはこう思っているに違いない」と、頭から決めつけているだけで、あくまで腹心の一物(自分の意見)を押し通すのみ、対話弁証法的な「討議」が成り立たない所以である。東電の原発事故を巡る政治家の発言の迷走ぶり・会見場での釈明の不手際は、紛れもないその証左であろう。
先ずもって事実関係はどうなのか、瀕死のトルソー(胴体部)を把握できるトップ(考える頭部)がいない。例えば、昨日の衝撃的な発表で、事態は一気に転倒しかねない。東京電力は5月9日(月)、福島第一原子力発電所で、原子炉建屋が激しく損壊した4号機について、「水素爆発以外の可能性がある」とみて調査していることを明らかにした。「建屋5階の使用済み核燃料一時貯蔵プールで、水素を発生させる空だきの形跡がないことなどが判明」した。この調査結果を踏まえると、建屋の倒壊には「別の原因がある」との見方が浮上していると。事実誤認とすれば大問題、大震災から二ヶ月あまりが経過した後の、不承不承での発覚である。
では因果関係はどうなのか。「建屋内には、原子炉内のポンプを動かす発電機用の潤滑油貯蔵タンク(約100トン)がある。他にも、溶接作業などに使うプロパンガスのボンベもあった」と考えられることから、事故との関連が疑われている。使用済み燃料棒の入ったプールの水質を調査した結果、意外にも「放射性物質の濃度が比較的低く、水中カメラの映像でも、燃料を収めた金属製ラックに異常が見られない」ことから、水素爆発を誘発する「空だきが起きていたとは考えにくい」と結論づけている。水素爆発でなければ説明できない破壊現象と、水素爆発以外の原因があった可能性を強く示唆する調査結果は、ジレンマをもたらす。
すると、運転を誤って起きた不祥事ではないとしても、運営(経営)上の想定を遙かに越えた大地震と大津波によって、核燃料でない他の燃料タンクが損傷することで、建屋上部の爆発に至った二次災害の可能性が高い。この点で、福島の事例はチェルノブイリの原発事故とは、根本的に様相を異にする。大事なことは、不確かな情報を元に騒ぎ立て、あらぬ風評を流し社会不安を煽ったり踊らされたりして、パニックに陥らない・陥らせないことである。危機的状況においては、常に正確な情報収集と冷静な分析判断が必要とされ、政治家には迅速な政策実行と救済処置が求められる。メディア言論には、受信情報の「正確さ」(客観性)と同時に情報発信源の「信頼性」(主観性)が求められる。しかし呉々も注意してもらいたい、判断者にとって「時間は貨幣である」(フランクリン)。主客未分の境涯を歌っている暇はない。時を惜しみつつも投資のタイミングを見失わないことが大事であるように、信頼できる価値情報はやはり時を知る「人手」次第、「見事な手さばき」(schöne Kunst)は妥当性と適時性を要する。
社会言論は、世論として平均化される場合を含め、自分の憶測や仮初めの判断を吟味しないまま垂れ流したり、ジレンマを他人に強いたりするものであってはいけない。それは「真偽」の選択肢を包み隠さず読者に提供しつつ、「言論の正義」(信憑性・真理性)を問わせるだけでない。同時に、為政者と国民の「諒解」に基づく社会的判断力に求められる妥当性追求は、高度に美学的な言論課題だからである。「身」と「体」を攫われ引き裂かれた人にとって、正義論(真理論)と美学論は切っても切り離せない。すでにシェリング(『芸術哲学』)において、真と美は同一のカテゴリーであると明言されていた。戦争行為のような人為的災害のみならず、地震と津波のような自然災害についても然り、それが国土復興に必要な「諒解関係」を結ぶ社会行為の大前提となることを肝に銘じておきたい。「自ら招いた未成年状態」(カント)を脱するには、まず失われた言語感性の再取得から始め、社会言論の格率(言語行為の主観的原理)を普遍的法の諒解レベル(公共性)へと高めるほかにないと、少なくともわたしには思われる。諸君の率直な意見を聞きたい。
(引用した一部のリソースは、2011年5月10日00時14分付けの読売新聞朝刊から、補足を含めそれ以外の文責はすべて私)

付記: (その後の経過報告と社会学的考察)
以上はあくまで4号機での話である。今度は、復興計画で一番進んでいたはずの「1号機で、原子炉内の核燃料の大半が溶融し、高熱で圧力容器底部が損傷した」と言う。この問題で、東電は5月12日、「直径数センチ程度の穴に相当する損傷部から水が漏れている」と発表した。「溶融した燃料は圧力容器の底部にたまっている」と見られ、東電は、この状態が、核燃料の「メルトダウン(炉心溶融)」であることを認めた」(読売新聞、他同様)。東電の松本純一原子力立地本部長代理は、同日夕の記者会見で、「燃料が形状を維持せず、圧力容器下部に崩れ落ちた状態」と現状を説明し、初めて公に「想定外」のメルトダウンを認めたことになる。2号機・3号機でも、同じことが危惧されると言うに及んで、二転三転する釈明に「今更」の嘆息しか残されていない。
今回の事故が教えることは、マテリエにフォルマがないと暴走する典型だという一点のみ。「冷たい理性と感情文化」、或いは「科学への反目と詩作信仰」のジレンマ(レペニース)を論うまでもない。語ること(言葉)と語り終えぬこと(無)への覚悟と備え、それも「心情倫理的でない、責任倫理的に方向付けられた」社会言論の実践が問われる。ヴェーバーの『職業としての政治』(89頁以下)は必読、政治家諸君は党派を問わず、終わりまで音読して自らの戒めとしてもらいたい。
原子炉を冷やすために、《真水》を注げば注ぐほど、《汚染水》が増えるというジレンマの「解」は、僅か数センチの亀裂で出来た《穴》、如何にしてこの《穴埋め》をするか、あとは技術者の「腕前」(Kunst)次第ということだろうか。5月14日、この僅かばかりの《穴》から、「一万トンの内少なくとも四千トンが《消えた》ことになる」と、消えた水の行方を巡り疑心暗鬼だけが先行し情報が錯綜する中で、当惑から衝撃へと状況は一転する。「暴走する車の車輪に、楔を打ち込む」(ボンヘッファー)人はいないのか、叡智者たる存在の真と美がマッチしないぞと「良心」に咎められても、呟くばかりで返す言葉に力がない。人類はそのミスマッチへの自己責任を厳しく問われている。
5月15日(日)21時25分

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku