2011年7月3日日曜日

主語がない・顔を見せない、述語論理の玉手箱

Fehlendes Subjekt und maskiertes Gesicht, berichtet aus der General-versammlung TKW
【7月9日(土)更新】
原発事故を起こした注目の東京電力株主総会が、628日(火)千代田区の某ホテルで催され、それとは別に報道機関向けの中継が東電本店の大会議室で開かれた。田原総一朗と佐高信、どちらが真っ当な評論家であるかといった議論に組みするつもりは毛頭ないが、相変わらずの「饒舌ぶり」(Gerede)には辟易する。それでも「曖昧さ」(Zweideutigkeit)に徹する企業側の言動を明るみに出す必要上、殊更に無視は出来ない。毎日新聞社の記者浦松丈二氏は、企業批判の急先鋒として知られる佐高氏の言動を織り込みながら、特集ワイドの詳細を逐一報告している。報道は一部意図的に制限されており、読者の「好奇心」(Neugierde)を煽るに十分だが、舞台上の人物(経営陣)の「顔(Gesicht, Persona)が見えない」よう工夫され、映像の焦点が絞れないように予め仕組んである(ドイツ語表記は私、以下同様)。
淡々と年次報告をする勝俣会長の言葉を遮るように、緊急「動議」(Antrag)が提出される。主語がなく責任がはっきりしないおわびだ。勝俣さん、責任を感じているなら議長は務められないはずだ。信任をとっていただきたい」(傍点は私)。議長不信任の動議を巡り、最初の議決が行われた。「賛成の方は挙手願います」(議長)に、大勢の人が手を挙げた。すわっ解任か?と思う暇もなく、続いて「反対の人」の挙手が求められる。こちらも大勢が手を挙げた。ところが、「反対多数です」(議長)と、あっさり否決されてしまう。不思議である。「どうやって議長は票を数えたのだろうか。会場に入りきれず、別室で映像を見ている株主も多数いるのに」と、怪訝な顔で記者はメモする。説明責任を追及すると、「東京電力の大株主には東京都のほか、銀行、生命保険会社など大企業がずらり。議長は会社側が、大株主から過半数の委任状をもらっていることを明かした。要するに、採決は“茶番”なのだ」。笑劇(Schwank)にはまだ選択肢の余韻を残すか議論の余地を示唆する芸があるが、この類の茶番は後味が悪い。最初から結論は決まっており、議論の余地は全くない。あとは反対者の口を封じるだけの、悪ふざけ(Posse)の演出に近い。脱原発の第三号議案も、同様の仕方であっけなく否決された。注目された歴史的総会は、こうして「壮大なすれ違い劇」に終る(引用句は浦松報告、脚注1参照)。総会屋でガードされた大政翼賛会的な以前のシャンシャン総会に比べると、株主の発言権が飛躍的に向上した今日的状況はまだましだと、お茶を濁してはいけない。「言語はその世界の限界である」(ヴィトゲンシュタイン)。
古来日本語システムの世界では、「主語がない」か明記されないケースが多い。あっても、主語と述語が連動しないので、発言の真意が常に曖昧である。発話者の「顔が見えない」から、責任の取りようがないと非難される。政治と経済に宗教を加えた三つ巴の社会言論混迷の主たる原因は、日本語教育の欠陥で裏付けられようか。例えば、屈折言語の欧米語と異なり、膠着言語である日本語動詞の活用形は、「人称変化」(Flexion der Person)を知らない。述語関係は、主語の「人称」(Person)とは無関係に用いられ言い済まされる。確かに、曖昧な言葉で決着を図られると、余計に政局は混迷するばかりである。足りないところは、英語やドイツ語の外国語教育で補ってもらいたいでは、余りにも無責任であろう。では、なぜ文部科学省は日本語動詞の活用に人称変化を導入しないのか、グローバル時代に見合った国語改革の余地は幾らでもあろうにと、疑問百出である。日本語文の主語・述語関係が、場面と文脈依存の文章論(読解技法)一点張りでは、もはや時代遅れではないかと、言われて久しい。当初、鈴木孝夫氏の「共感的同一化」論は弁明的で、私には後ろ向きの議論でしかないように思えた。しかし、示唆に留め完結しない俳句のように、「言い残しの部分を補うのは読者の積極的な感情移入」(positive Einfühlung)であるとみる成瀬武史氏の解釈(『ことばの磁界』)に触れ、最近では従来の考えを改めざるを得なくなった。リップスの『美学の基礎付け』は、その点で日本語改革への貴重な礎になるかも知れない。西洋譲りの主語論理にはない、述語論理の玉手箱が魅了する、至高のカスタム言語ゲマインシャフトによる諒解行為世界(Entwurf einer am Einverständnishandeln orienteirten Sprachgemeinschaft als letztmögliche Aufgabe der Ästhetik)を見たいものだ。 
生活世界では、主語述語関係がはっきりしないと、確かに困ることが多い。例えば、国内・海外で商いをするに、売り手・買い手の主観性(動機理解)を曖昧にした侭では、「経験の妥当は諒解の妥当」(ヴェーバー)という経済社会の鉄則に迫ることは出来ない。思索するにしても然り、「世界内的存在」の位相を読み損なうと、表層の「世間体的主観性」(mundare Subjektivität)に「先立つ」、より深い層にあると主張される「超越論的主観性」(transzendentale Subjektivität)(フッサール)の陥穽を見破れない。いずれ、「先立つ」モノの働きと人称のマスクした存在者との関係が問題となる。いざ東洋的主観性の、「述語となって主語とはならぬもの」(西田)を論じるにしても、「根源語」(ブーバー)である我と汝・我とそれの関係、「芸術作品の根源」(ハイデガー)は避けて通れない討議課題となる。「無人称」と揶揄される日本語世界だが、社会学的「共感論」からの読み直しによって、新たな地平が空け開くかも知れない。働きのみ有って人称が無いか隠されている(己を隠す)ことの意味がどうなのか、国風文化(禅)の原点に立ち帰って考えてみる価値は有ろう。その中に、垣根に薺の花を咲かせるか、隠れた主語(顔)を表舞台に引きずり出し一喝する、述語論理の玉手箱が隠されていよう。経済産業省と原発企業の背後に隠れた面々を本気で叱ることが出来る(脱原発を推進できる)のは、お遍路を済ませた市民運動家肌のこの管首相以外にいないかも知れない。この意外性が、日本の政治の歴史(社会言論史)を塗り変えるかも知れない。あくまでも予感である。
一言お断りしておくが、私は東電総会に於ける佐高氏の発言に全面的に賛同しているわけではない。言葉の端々に「縁」を見た、それだけである。二十年前の私であれば、憚らず追求する側に立っていたに違いない。大島先生に出会い禅に学び始めたのが二十年前、それ以来今日に及んで「主観性の世界(フッサール)と芸術作品の根源(ハイデガー)」を研究テーマに美学の課題と取り組む中で、以前の私とは「別様に考える」必要性を感じている。学生諸君も、私の社会学的共感論批判と一般社会学言論講義(序論)への取り組みの微妙な変化を、感じ取ってくれていることと思う。
卒業してこれから就職しようとする学生諸君が、自分に科せられた生涯の学習課題して、帰属先となる公益法人や営利法人の「法人」(juristische Person)とは何かを、レポート課題にしてもいい。それもまた、思慮に値する立派な「主語」(社会的自己の要件)である。これを機に、会社や企業のマスクしたヒトの存在を如何に理解すべきか、身構える擬制的行為を存在(言葉)の地平から捉え直し、それも所産(最終生産物)からでなく能産的無の《根源》から問い質すこと、最悪の想定からのみ、最善のシャンス(可能性)が生じることを考えよ。それをもって「善悪の彼岸」に、自分の悟性を使用して考える手掛かり、峠(存在の彼方)へと跳躍する足掛かり(シャンス)として欲しいと切に願う。君たちはどう考えるだろうか、率直な意見を聞きたい。

脚注1: 浦松報告の詳細は、以下のリンクを辿り参照せよ。
→ http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110630dde012020004000c.html

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