2010年12月26日日曜日

クリスマス神話と「ローマの平和」

Weihnachtenmythos und "Pax-Romana"
 日本中どの街角を訪ねても、クリスマス商品で大賑わいですが、クリスマス自体の詳しい由来など誰も知らないようですね。キリスト生誕のお祝い事だと知っている人でさえ、1223日のクリスマス・イブくらいしかご存じない。クリスマス行事が23日に始まり、26日まで続くことまで知る人はもっと少ない。ローマ帝国の国家行事だったことなど、知る人は皆無です。クリスマス休暇は一ヶ月近くあります。そもそも、12月を定番とするクリスマス行事がキリスト教のお祭りであるというのは、歴史的には少しおかしな話です。と言うのも、確かにベツレヘムに幼子イエスが誕生したという福音書物語に由来することですから、キリスト教と無関係ではありません。しかし、23日の前夜祭を含め、24日まで待降節(アドベント)が続き、12月25日が肝心の降誕祭(クリスマス)だというのは、長い間キリスト教の伝統とされながら、成立の事情は全く違います。元はと言えば、名もない非合法のキリスト教徒集団が、一躍ローマ帝国の国家宗教になって以来のこと、つまり、コンスタンティーヌス大帝が312年に、十字架を錦の御旗にミルヴィウス橋の辺でマクセンティウスに勝利して、翌年リキニウス帝とミラノ協定結んだ後、ローマ帝国をキリスト教化する基礎を築いたのが始まりとされています。実は、それまでローマ帝国の軍事宗教であったミトラス教の冬至祭(サテルヌス祭)が1217日に催されており、それが一連のクリスマス行事の起源なのです。もっとも、行事の形式や日程は踏襲しても、コンテンツは全く新しいのだと言われます。キリスト教が国家宗教の営為を受け継いだのは、ミトラス教の冬至祭だけでない。その後の長い歴史に於いて、種々様々な異教の伝統祭をキリスト教の慣習として取り入れ、自家薬籠中のものとしていった経緯があります。祝祭に肖り蜜や富を得んとして、国を挙げての神話的行事に群がる蜂蜜巣作りの世界、表向きはいわゆる「ローマの平和」で象徴される、お国のために働くモノとヒトの交流、「諒解」ゲマインシャフト(corpus consentionis)の古典的モデルが、こうして成り立っています。古典的と言ったのは、農業以外に核となる産業がない古代ローマ社会(societas)の事情があり、更には「ローマの平和」を保証する「諒解関係」が市民レベルでなく、祭りに政(まつりごと)を執り行う官僚レベルの話だからです。、
 ところで、サンタクロースの話にように、原資料になかった話が後代に於いて追加され混入してきた事例は後を絶ちません。例えば、キャンドル・サービスに使う台座の植物が何かご存じでしょうか。赤い実を付けた「宿り木」(Mistel, mistletoe)です。その「宿り木の下でキスをする」とよい縁結びになるという、昔からの言い習わし(Kuesse-freiheit unter dem Mistelbaum)が評判となって慣習化し、クリスマス行事として欧米に定着していった背景には、いずれも北欧神話(ゲルマン系民族の神話)が係わっています(日本では、皆目知られていませんが)。由来が異なるにも拘わらず、キリスト教の行事として広く認知されて、今日にまで至っています。もっとも、ローマ帝国に侵入するゲルマン民族が異教からキリスト教に改心した際に、旧来の祭儀を持ち込んだというのが真相でしょう。政局に勝利したが為に失われた何かが、現に其処に有るのです。「ローマの平和」(Pax Romana)の下、マスクしたヒトの現存在ルートに係わる「社会言論」の変容が、法の実定化と富の実体化に裏打ちされて、ローマに通じる街道の要所に設置された、バザール(商い市場)でモニターされます。
 福音書物語の「原資料」が何であったかについては、「イエスの語録」(Q資料)説・「受難物語」優先説・ガリラヤの「イエスという男」説(田川)など、聖書学会周辺では複雑な議論が多々あり、一般読者が理解するのは困難でしょうから、このブログでは取り上げません。一つだけはっきりしていることは、「誕生物語」が最後に追加されたという事実です。ヘロデ王による幼児虐殺という、暗いイメージの政治スキャンダルを報告をするマタイと異なり、一転してルカでは、天使と羊飼いに彩られた明るい田園風景のイメージと、平和のメッセージで一杯です。ルカが福音書の冒頭でローマの有力政治家テェオフィロスに献呈していることで分かるように、キリスト教が反ローマ的な政治団体ではない、むしろ積極的に「ローマの平和」に寄与する、柔順な小羊の集団なのだという、イメージ造りに腐心している様子が一目瞭然です。しかし、クリスマス行事に関して、具体的なことは何も示唆されていません。
 では、本来「原資料」になかった(で無かった)要素が、なぜまことしやかにキリスト教の伝統行事として、(で有るかのように)語り伝えられるようになったのでしょうか。ヒントを一つプレゼント。クリスマス神話を物語るヒトの存在は、実は「神もしくは貨幣」(で有る)モノの秘密です。さすが、「神もしくは自然」を語ったスピノザは偉い!で、ひとまず話を終えておきましょう(笑)。教団会計を左右するモノ語り「で有る」も「で無い」も、同じ神か貨幣の裏返しに過ぎないことが多い。それほど、「神もしくは自然」の富(属性の共有と交換、働くモノの因果)を満喫するか収奪する、人間の自己管理責任は大きいということです!

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

6 件のコメント:

  1. なるほど。でも疑問ってたくさんありますね。なんで日本ではクリスマスは恋人の日でケンタッキーを食べるなんて習慣なんでしょう?

    ケンタッキーフライドチキンが過去になにかのきっかけで、クリスマスに合う食べ物として大々的な宣伝でもしたのかもしれませんね。とすると、”キリスト教の慣習として取り入れ、自家薬籠中のものとしていった経緯があります。”にあてはまりそうですね!

    僕もひとつ知ってます。エイプリルフールの起源みたいのを。たしかフランスがなんかが、過去4月1日の新年の始まりみたいな制度を1月1日に変えたんです。しかし、(通信手段の欠如?)なかなか広まらずいつまでたっても4月1日が新年と思い込むひとがたくさんいたそうです。そして知っている人はその人たちのことを笑ってやったそうです。

    なんとなく先生のおっしゃることの的を得ています・・・・・よね。なんとなく自己管理の意味にもなります・・・よね!ありがとうございました。

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  2. 商社のキャンペーン(作戦行動)には、目玉商品(der Lockartikel)が必要不可欠です。ケンタッキーやモスバーガーにしても然り、商売上手のアメリカ系が目白押し。ニーズ(需要)がある限り、サプライ(供給)は戦略的に、マーケットの予想を立てて為されます。その予想に準拠して行為する(商品購入)と、需要供給のバランスシートがうまくいくという蓋然的な可能性が確かにある。これをヴェーバーは「諒解」関係と言ったのです。戦略的商品を買う・買わないは自己責任の範囲です。挑発的言論に乗る・乗らないが、自己管理責任に帰せられると同じことです。もっとも、民間商社での話で強制力はありません。国家行事ともなれば法的強制力を持ちますから、要注意です。しかしキリスト教世界の世俗化に伴い、クリスマス行事への参加は個人の選択に任されています。では、靖国神社の問題はどうか、ここが考えどころです。信教の自由に係わるからね。

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  3. エイプリルフールについて、付記しておきます。幾つも異説があって定説などありませんが、時期的に一番古いのはドイツでの話。アウグスブルク帝国議会が1530年4月1日付で「通貨の日」を発令したのはよかったが、その日になっても肝心の通貨は発行されず市場に出回らない。それを当てにしていた業者は大損し「馬鹿を見た」のが始まりとされます。次はオランダでの話、スペインとの間で交わされた80年戦争の際に、スペインの総督を「愚弄した」(Nase drehen)のが4月1日。最後はフランスでの話、国王シャルル九世(Karl IX)が一連のカレンダー改革を断行した際に、旧来の3月末の代わりに、これを廃止して1月1日を年始としたことに反発した民衆が「嘘の年始4月1日」を祝い続けたことに端を発する、「愚者の祭典」が一番有名ですね。でも、時期からすると「後の祭り」でしょう(笑)。ドイツ語では当初Aprilnarrで、まだAprilscherzとは言われていなかったようです。エイプリルフ-ルを巡るこういった逸話のすべてが、実はルターによる宗教改革前夜の世界での話だったことを考えると、中世末期の世界を生きた民衆の素顔・嘘偽りに苛立つ様子がよく分かりますね。4月1日だけはマスクして嘘をついていい、でもその日以外はダメよという風習に、幾分問題があるとしても、万年虐めの日が続く日本で定着しそうにないのが残念です。要は言語感性と、社会的良心(Gewissen)の未熟さ加減によるものです。

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  4. 「旧来の3月末に代えて」でなく、旧来の4月1日に代えてでしょう?うっふ、やった~!お面一本、これでお相子ね(微笑)

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  5. またお前か、クレメンス(呉面子)!お面返し(ルサンチマン)などに拘らないで、読者のヘアーノダをサポートするようなコメントを書かないとダメじゃないか。師走は、ダルマさんの『二入四行論』を繰り返し読んで、しっかり修行しなさい!

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  6. じゃ、お言葉に甘えて(いいのかな)、あの~、ヘアーノダがいう「自己管理」って言ってるのは、自分でどうにかしないといけないし、内心頑張れば何とか自分にも出来ると思われているものではないかしら。マイヤー先生が言ってるのは、自己とはそもそも公共社会で対他的に関係づけられて共有されるべきモノみたい、「社会的自己の共同管理」に近いイメージじゃないのかしら。でも、社会的自己って、何か不透明な感じ。そのあたりが噛み合ってないか、少し食い違っている感じね。ヘアーノダ、「花一匁」のあと一押しで先生の鼻へしおれるかも(笑)、SC

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