2010年12月5日日曜日

ツイートに、足りぬ煉瓦のヒント得て

Einen Wink siehst du am zwischernden Spatzen, der vor Augen vorbeifliegt
ツイッターは「つぶやき」(呟き)だと言うが、英語では murmur でな く twitter の綴りだから、正しくは暗いイメージの「つぶやき」や「ざわめき」でない、明るいイメージの「さえずり」(囀り)か「ささやき」(囁き)を意味する。元はと言えば、それはドイツ語で、murmeln に対して zwitschern という、いずれも同じ擬声語で、共鳴する言葉の変域内にある。その聴覚イメージで、両者の明暗が分かれる。マーマルがザワザワした音で不明瞭に話す(murmeln, lärmen)のに対して、ツイートは小鳥たちがチッチと「さえずる」(囀る、zwitschern)様子に由来する。例えば、雀たち(Spatzen)が群れをなして賑やかにチュンチュンと「囀る」(tschilpen)様子に、濁り・曖昧さ・不明瞭さの面影は微塵も無い。ところが一方で、生徒たちが授業中に不満げな面構えで「呟く」(murmeln)のは、何やら言いたいことが有ってのこと、「もぐもぐ・ぼそぼそ・ぶつぶつ言う」(murren)に始まり、制止しようとする教師を無視して、勝手にあれこれ「私語をする」(whisper, wispern)ようになる。所詮私語はモノローグ、学級崩壊はこうして始まる。私語は「呟き」と同じ、「曖昧さ」(Undeutlichkeit)の系譜である。他方で、近所の主婦たちが井戸端に集まり、世間話からあらぬ事まで、饒舌になりぺちゃくちゃ「しゃべる」(喋る, schwatzen)ケースは、コンセプトに明暗の差はあれ、語るスタイルは「囁き」と同じ系譜で、元気印の「お喋り」 (Geschwätz)である。それなりに、広場(公共性)でのダイアローグの形を踏襲する。「曖昧さ」と「お喋り」(饒舌)に三つ目の「好奇心」(Neugierde)が加わると、不安の余り「公共性のマスクしたヒト」(das Man)が其処に佇む、ハイデガー哲学の世界である。
「好奇心」に、実名と匿名の差はあるのだろうか。ゲームのアイテム購入を巡る詐欺事件で、俄にざわめき色めき立つ実名主義のフェースブックと異なり、ブログにチャットの対話要素を加味した匿名主義のツイッターには、記号の恣意性を手玉に取った、ひょうきん(剽軽)に明るい言葉の狼煙(囁きの共鳴)がある。中にはくだらない洒落や根も葉もない噂話も多くあるが、話がどう広まっていくのか、投げた球がどちらに転んでいくのか、誰と出会うかも分からないという、奇妙な不安と期待感が入り交じった、ソーシャルゲームの感覚でのみアプローチ可能な楽しみを満喫するに、散文のショートメッセージは効果的である。これが韻文なら、其処は連歌の歌詠み世界に変貌しよう。さも仮想の歌詠み会か仮面舞踏会にいる「かのように」(als-ob)、マスクした自分を語らせ、第三者として振る舞わせることで、希薄な存在感を充填することが出来るような、人の温もりを体感させるに取りあえず十分な、コミュニケーション・ツールの趣が其処にある。もちろん、消費者の落とし所を狙った計算済みの趣である。情報源としての信用価値云々よりも、波上の言葉が上下左右に激しく揺らぐ大海の表面運動に過ぎないとしても、「時間は貨幣で有る」の言葉で巻き上げられた「文化資本」(プルデュー)の成り立ちが、ネット世界をサーフィンする若者たちの語り言葉にしげく伺われる(その実、巧みに縫い込まれている)ので、耳元で囁きながら呟く(flüstern)ように仕向けける情報筋、衝動買いの場を演出し囃し立てるコ・マーシャル(商用価値)の折り込み情報に、格別の注意が必要だ。注意を怠ると、どうしようもなく散漫になる。携帯で繋がっているようで何処にも繋がっていない、派遣労働の駒に過ぎない将来への不安から、藁をも掴む必死の思いで、、叫びを「囁き・呟き」にしてサインを発信する。これは、働くモノとヒトが共鳴(ペルソナーレ)する文化の、理解社会学的・記号論的な解明の貴重な共有課題となろう。解明の鍵となるのは、就活中の君がすがる「一本の藁」である。
私がドイツに留学した1973年4月の中旬、近郊のウルムという町で珍しい買い物をしたことを、今でも鮮明に覚えている。嘴に一本の麦藁を咥えたチョコレートの雀が、当地で評判のお土産になっていた。話を聞くと、その昔ウルムのゴシック風大聖堂を建築する際に、煉瓦が足りなくなったという。付近の土を捏ねても強度が足りない。小春日和のある日、領主(事業主)がふと庭先で賑やかな雀の「囀り」(schwatzen)を聞いた。何と、嘴に麦藁を一本咥えて、建築中の教会堂の前を横切って飛んだ。咄嗟にこれだ!、これさえあればどの土でも強度は何とかなると気づき、土に麦藁を混ぜて残りの必要な煉瓦を造り、世界一のっぽの大聖堂を完成したという逸話である。ツイートに、思わぬヒントを得たモノ語りとは、単なる洒落ではない。見る目と聞き耳さえ持っていれば、ささやき(囁き)もつぶやき(呟き)も、世代交代が必要とする「それ」を働かせるシャンス(大事な縁)となる。「それ」が、メタファー(隠喩)でのみ理解可能であることは、言うまでもない。
「囁き」も「呟き」も、世代・時代の関心の持ち方次第で趣が変わり、社会言論の様相も一変する。「諸学の危機」(フッサール)が叫ばれた世紀の転換期に話を移そう。著名な作家と異なり、本人と親交のある文化人や批評家たち(リテラーテン)があれでもないこれでもないと、しきりに他人の揚げ足を取り、「何でも齧り家」の物言いをして憚らない。これに対しては、Geschwätz でなく Gerede という言葉が使用されるケースもある。一方でヴェーバーはGeschwätzと、他方でハイデガーは Gerede と言うも実は同じこと、どちらも「お喋り・饒舌」だけが取り柄で、さしたる相違はない。ヴェーバーの親友トレルチは、第一次世界「大戦が終わって、これでやっと、物書きネズミ(Nagetiere, 囓りネズミ目)たちはいなくなってくれた」と安堵したという。「語り終えることのない」ものを、強いて語り尽くそうとする面々、「少し囓っただけで、あれこれと論じ物書きする」大衆受け狙いの文筆家たち、言葉を売り物とした商魂逞しい知識人(噂の種本造りに精を出す出版関係の教養人)たち、口先八丁の評論家たち(文学者・哲学者・社会学者の取り巻き連中)への警告であろう。
しかし、問題の根は深い。人間は他の動物と異なり、言葉を有する生きモノ(アリストテレス)である。読み書きの技術だけでない。互を理解しあう仕方で語る・語らせる、説得性の技術を持っている。言葉を使って自分を語るか相手を語らせる、(さもなければ、金を使って黙らせるしかない)、総じて対話的な生きモノ(理性的人格存在)である。自分で「語る」(reden, Rede halten)には、これに「応じて語る」(Gegenrede halten)相手が予想される。対話や討議には、当然第三者の介入(参照すべき解釈項)が常に意識されている。協定文書が無くても、相手が予想を立ててすることに準拠して、事実協定が有る「かのように」行為すれば、その通りになるシャンス(蓋然的な可能性)が事実存在する。それに準拠して振る舞うことをヴェーバーは「諒解行為」(Einverständnis-handeln)と呼んだ。我々が誰かと向き合い対話するときも、同じ「諒解」関係が予想される。討議(Diskurs)に於いても然りである。語るモノ(エス)を講ずる(halten)だけの主我的な態度を改め、「それ」へと自分を繋ぎ止める、或いは「それ」自身を語らせる(結果、沈黙を余儀なくされることもあり得る)、再帰的ルートを意識した社会的行為(,soziales Verhalten, < sich verhalten)が期待される。自他の利権や利害が絡めば尚更のこと、等閑(なおざり)には出来ない。対話や討議に於いて第三人称で働くモノを見据えること、これを「弁証法」的な社会言論の技法を修得する自分の好機とし、相互理解の良縁として捉えるよう、読者の奮起を促しておきたい。それは、日常的なお喋りや呟きの中でさえ、いつでもそっと無差別に贈られてくる、分け合うべき(「言語事件」としては一度限りの)良縁なのだ。自分の目の前に立ちはだかる壁でさえ、「ふと見れば、薺(なずな)花咲く、垣根かな」(松尾芭蕉)である。

Shigried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku