2010年12月20日月曜日

ワイナリー「革新」(旧稿改訂)の技法

Erneuerung der "Schläuche" (alten Manuskrips), in weinarischer Kunst 

【2012年2月2日更新、誤字等訂正】
 拙著『人(ペルソーナ)・働き・存在』について、読者より再販の問い合わせがありました。クリスマスをめどに、再版でなく改訂版を準備中でしたが、出版費用の調達がむずかしい。考えてみれば、その後の社会学分野での精力的な研究成果と整合性を取る必要があり、そのためには旧資料その侭の再販や、照合しているリソースのミスマッチを正しただけの改訂版では十分でない。いずれ新書にして、改めて世に問う方が無難であり正解であると判断するに至りました。聖書にも、「新しいブドウ酒を旧い革袋に入れる人はいない。そんなことをすれば、革袋は破れブドウ酒は流れだし、どちらも台無しになる。新しいブドウ酒は新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、どちらも長持ちする」(『マタイによる福音書』9章17節、私訳)と言われているとおりです。ペットボトルのような便利な容器がなかった時代のこと、羊や山羊の骨と内臓を取り除き、裏返しにして袋状に仕上げ、首もとを飲み口にしただけの粗末なもの。取り立てのブドウ酒(ワイン)は酸味が強いので、旧い革袋(スキン)に入れると劣化し裂けてしまう。ユダヤ教の旧い体制に真新らしいキリスト教精神の一部を取り入れて、旧いユダヤ教の生活形式を取り繕うとしても、継ぎ接ぎのミスマッチから裂け目が生じ、両方とも台無しにすると警告している。これが必ずしも昔話でないことは、無機質のガラス製ビンやペットボトルより、有機質のワインスキンがワイナリーやエコマークのマーケットで、好んで用いられている現状を考えてみればいい。生ビールや日本酒では、樽に相当するでしょうか。翻って、著者の生の声を送り届ける、書物の改訂について考えれば、ワイナリー仕込みの編纂が課題となるでしょう。ここではさしあたり、著作の一部修正による継ぎ接ぎでなく、抜本改正・全面改訂への勧めとして理解しておきたい。古来、「革新」とはその字義通り「皮革を新たにする」、革製の道具・武具を改める」ことに喩えられています。とりわけワイナリーには、以上見たように、「革新」(旧稿改訂)の技法を学ばせる、大事なヒントがあります。以下では、執筆の動機と経過、書の成り立ちと改訂の必要について説明責任を果たすことで、クリスマス・プレゼントを出し損ねたことへのお詫びに代えたいと存じます。

 本書(初版本)は1999年の秋以降数年に渡り、フライブルク禅アカデミーの大島淑子先生が明治大学でなされたご講演を拝聴した際に、大悟するところがあり一気に書き下ろしたもの、一般読者向けの哲学入門書です。限定出版だったせいもあり、書店でご覧になった方はおそらくおいでにならないでしょう。大島先生に触発されて取り組んだのが、初期ハイデガーの『オントロギー』(事実性の解釈学、1923年)と『存在と時間』(1927年)の二書でした。旧稿・新稿のどちらであれ、リソースと一体になっています。執筆スタイルもリソース次第ですから、原資料の扱い方(理解と解釈の仕方、入れ方・盛り方を含む)が異なると、先程の譬えで言えば、革袋と葡萄酒の新旧関係から、いずれ裂け目が生じます。あくまで譬えですから、過度にアレゴリカルな意味付けは禁物です。姑息なまでに旧稿削除を常としていたハイデガーと異なり、スペイン風邪で急逝したヴェーバーの場合、トルソーの「頭」に当たるはずの一部を除く、ほとんどが旧稿の侭である「遺稿」の扱いを巡って、同様の問題が発生しています。ソシュールの場合は新旧のいずれもない、一部の原資料を除けばトルソーもない、学生たちの「聴講ノート」頼りの「暗中模索」といったところでしょうか。バルトは、『ローマ書講解』の旧稿も新稿も隠し立てせず、改訂前後のすべてをオープンにしていました。わたしの場合も隠し立てなど一切無用、新旧改訂のポイントは三つ、原則オープンにしています。いずれも方法論に係わることなので、難解だと思われる方は、遠慮なく次の段落にスキップして下さい。

 先ずは理論的に、命題間の整合性を高めました。初期ハイデガー研究の成果を踏まえて、「人(ペルソーナ)に於いて働く存在」の地平を解明するのが目的です。現に其処で働くモノの如何にを、三つの位相に分節化する移行形態として捉え直します(通時論)。更に三つの関係子(言葉・体・貨幣)との絡み具合を再調査し、文化資本的な成り立ち・構造を解明します(共時論)。最後は、全体をメタファー論的な社会学言論の、弁証法的な討議課題として探求します(討議論)。
 次は実践的・具体的に、リソースの再編に伴う読み直しと最適化、参照する事例と実例の後付を強化しました。人格性(ペルソーナ文化)理念の興隆 → 現象学的働き(パフォーマンスとしての非人格化)の解明 → 存在の地平(オントロジー)の探求は、その後の調べで、シェーラー・フッサール・ハイデガーの論争史に見て取ることが出来ます。
 最後は応用面で、必要な課題修正を試み、言語経験上の妥当性を高めました。解釈項を参照する際に討議の前提となる第三人称系が限りなく曖昧で機能していない日本語文化の批判は、避けて通れない課題です。それでも、森有正の日本語批判(二項形式・現実嵌入)と八木誠一の宗教言語論(禅問答の論理分析)だけでは片付かない、様々な分野でのリソースの読み直しが必要となりました。その後の議論を踏まえると、参照していたリソース(旧資料)の大胆な組み替えが必要とされ、それに伴い改訂は避け難くなりました。

 この著書が出版された2004年11月の時点では、まだヴェーバーとハイデガーの接点は明らかにしておりませんが、政治家でもあった晩年のヴェーバーがリテラーテン(著作家と親交のあった出版関係の文化人・社会評論家)批判を展開する中で、就職活動中の若いハイデガーに影響を与える事件がミュンヒェンで発生します。二人が遭遇するその現場へと向けて予備的研究をすることに、拙著(初版)の狙いがあります。「宗教社会学的メタファー論考」という副題から分かるように、一般人向けに分かりやすい「言語哲学入門」を主たる課題としています。世論として通用している「社会言論」批判を展開する中で、言葉の連鎖と共鳴に「言語事件史」を読み取り可能な「一般社会学言論」講義を構築することが出来るかどうか、本書執筆の正念場を迎えることになります。
 当時、表向きはヴェーバー論とソシュール論の突き合わせはまだなされていませんが、伏線としてはすでに予想されていたこと、その後講読会で学習した副次的産物です。ヴェーバーやソシュールが思いもつかなかった「社会学言論」という新たな課題分野を拓き、最後は「理解と解釈」社会学から「諒解」関係の経験妥当域を取得するために必要となる技法を収集しつつ、弁証法的思索と討議(dialektischer Diskurs)による、慣用的な「社会言論」(konventionelle Sozial-Rede)批判として、「一般社会学言論」講義(Lektüre der Allgemeinen Sprachwissenschaft nach der soziologischen Kategorien)を構築すること、そこに本論の最終目標があったことは、事後的になりますが敢えて明言しておきたい。改訂新版では「弁証法」とは何かを再定義し、それがヘーゲルやマルクスに於いても然り、論理や物自体の自己展開を可能とする「法則」科学的なものであるより、むしろ優れて人格的な諒解行為を必要とする言語経験の第一要件であること、非人格化(非人称化・非人間化)を強いる官僚制や制度言語の社会に於いてであれば尚のこと、働くモノとヒトの影響史的・位相幾何学的探求が、妥当な「諒解関係」構築を目指す「一般社会学言論」に固有な課題であることを論証します。ソシュールの原資料の中で最後まで曖昧の侭に使用されている、「社会協定」という言葉遣いの真意に迫ることにもなります。
 はたして、ソシュールの言う「社会協定」はデュルケームの概念だとしても、協定があるかのように行為する「諒解」概念とどう違うのか。デュルケームとヴェーバーでは概念理解に違いがあり、コンセプトの隔たりは小さくないとしても、同じ欧州大陸内のフランスとドイツでの話、思考スタイルの違い以上に出るものではない。二人は主題の変域・共鳴域を同じくしており、関心の方向性・概念の近接性に重なる部分があって当然だろうと考えられます。そこで更に一歩踏み込んで、東西世界で異なる「諒解関係」が有るの無いのか、有るとすればその如何にを問い吟味しつつ、無ければ「語り終えることの無い」モノの働きを語らせる、非人称的「言語事件」の解明が促されます。
 最後は、ネストリオスや「史的ダルマ論」の研究成果を踏まえて、上限(言葉)と下限(無)へ迫る問い("Zen -anders denken?Zugleich über Zen und Heidegger" での大島淑子先生の命題)が無駄ではなかった、と私は言いたい。現に其処から、有意味且つ生産的な討議の「一般社会学言論」講義へと繋がる、後退不可能な確かな一歩が踏み出されたことを、読者と一緒に喜び祝いたいと願う次第です。改訂版の出版は、大島先生と出会った時から数えて七年目にあたる、来春以降を予定しています。原資料の再仕分けをする中で、改訂新版が別のタイトルを冠することは避け難いことを、予め示唆しておきたい。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳、the Institute for Rikaishakaigaku

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