2010年10月6日水曜日

語るモノを失くしたヒトの群像、働き蜂の失踪事件

Was "es" an uns wirkt, und das verstummte Selbst ist

【2013年2月17日更新】
  働き蜂の失踪事件は、人間社会への警鐘だろう。高齢者の失踪(所在不明発覚)事件は、君たち若い世代の明日を予告する。一方に、就職未定で悩む自分がいる。他方、長い就職活動で苦労した末にやっと得た職場なのに、うまくいかない・おもしろくない・こんなのやっておれるかとキレる自分がいる。ミスマッチで悩んだり仕事を放り出したりする前に、友よ、今一度自分とは何かを考えてみて欲しい。日本語では話し手自身のことを「自分は」と表現する習慣がある。「俺は、私は」と我(ego)を主張することが憚れるせいだろうか、人称関係は不透明且つ曖昧である。聞き手を強く意識した「二項関係」(森有正)のせいだろうか、第三者の介入が嫌われる。
 印欧語で自分(Self, Selbst)は指示代名詞の同一なるモノ(das-selbe)に由来し、第三者の扱いである。人称代名詞に併記してその人自身の同一性が、主語と連動して再帰代名詞(sich)が使用されるとき、働くモノとの自己同一性が問われる。派遣されて働くヒトが苦しむのは、わたしは人(Person)であって物(Ding)ではないぞという、譲れない熱い思いからであろう。会社や団体組織で働くことに抵抗を感じフリーターである道を選ぶ人も、就職未定者を含めすでに内定を得た人も、よく考えないと、自己の余剰を捨てきれず持て余すことになる。自己とは元々関係概念なので、社会的人格と内奥的人格の間の「狭い尾根」に、君自身の現存在(居場所)を見つけなければいけない。たとえ運良く内定を得ても安心してはいけない。社会人であろうとすると、社会が機械的な歯車のようにではない、幾重もの見えざる「諒解」関係で束ねられていることに気づかされよう。
 マックス・ヴェーバーが言っているように、社会には「他の人々が予想を立ててすることに準拠して(私たちが)行為すれば、その予想の通りになるシャンス(可能性)が経験的に妥当しているということがある。それは、他の人々がその様な予想を、協定が無いにもかかわらず、自分にとって(主観的)意味の上で妥当なものとして実際に扱うであろうという蓋然性が、客観的に存在しているという理由からである」(私訳)。ここで、第三人称世界の「諒解」関係が議論になっている。もちろん、働くモノは「暗黙の了解」として鵜呑みにされる物ではなく、「諒解の妥当」を求めて取り組むべき働くヒト自身の主観的原理、いわゆる「格率」(Maxime)の問題となる。先行き不透明な21世紀の資本主義社会で働こうとすれば、働くモノに成りきるかマスクして成り済ますか、いずれにせよ人格性と非人格化の要件は避けて通れない。マルクスをフォイエルバッハとの関連で読み直すこと、カント(『道徳形而上学原論』)とヴェーバー(『理解社会学のカテゴリー』)の読み直しは尚更に必須、形見放さず君の座右の書にして、働く自分の考えるヒントにして欲しい。(プロテスタンティズムの禁欲主義的倫理に始まる)資本主義の精神は、不在の仕方でこそ生きて働くモノだから。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku