2010年10月18日月曜日

対話の文法、社会学のジレンマ

Grammatik des Dialogs, Dilenmma der Soziologie
 ハーバード大学のサンデル教授の講義(「これからの正義」)が話題になっている。その真骨頂は「対話型」である。「解釈学とは、対話の技法である」としたシュライエルマッハーがこれに先行する。違いは、後者がプラトン哲学をモデルとしているのに対して、サンデルがアリストテレスの哲学倫理をモデルとしていること。程度の差はあれ、政治と道徳のジレンマを解き明かす手法、ソクラテス的対話術を導入する点では共通する。映像メディアで公開された東大安田講堂での講義及びインタビューを聴いて、なるほどと頷かれた人も多いだろう。発言者の名前を逐一確認しながら、対話的に論点を積み重ね、ジレンマ解明への道筋を開示する仕方は、教師の理想である。私には、中でも彼が日本人の聴衆を意識して、さり気なく助言した次の言葉が、印象に残った。「二人称では相手(個人)を傷つけるから、一般的な話(間接批判の形)にしてはどうか。あなたの意見を第三者の議論にしてごらんなさい」。第三者の議論とは第三人称で語る・語らせること、第二人称では角が立つから、敢えて第三人称で語る仕方で相手の意見を評価することである。反対に、第三者であるかのように、第三者のそれとして聞く・聞かせると言い換えてもいい。それが印欧語文化圏の敬語法である。
 例えば古来印欧語には、親称のdu(君)に代えて敬称のSie(貴方)を使う習慣があるが、元は第三人称複数形の sie(彼ら)を転用し大文字にしただけのこと(英語のThou, Thy, Theeも同じルート)。身分社会の言語仕様と言うより、第三者の議論はマスメディアが垂れ流す過剰な情報を鵜呑みにすれば、「カオスの海」に浮沈する他ない今日だからこそ必要とされる、一般社会言論の標準的な評価仕様である点に注目しておきたい。諄いようだが、第三人称で語る・語らせることが、話し相手を敬い客観的に評価するシャンス(可能性)を分け合うことになるのである。人権思想に於いて然り、言論の自由を言う前にしかと考えておくべきだろう。先のブログ(「働くモノと自分のこと」)で、自己や自分が第三者の扱いであり、社会経済を仕切る「諒解」関係が第三人称複数形の世界に於いて成り立つことを強く示唆しておいたのも、その理由からである。歴史に於いて働くモノは、第一人称や第二人称世界(我と汝)の主観的意味を第三人称で語らせることで因果関係的に解明され、更に行為者(発話者)の目的合理性が客観的・経験的に妥当な諒解関係の形になっているかどうかで、行為の明証性・整合性を互いに問わせる。
 批判する言葉が刺々しく感情的になり、誹謗・罵倒の言葉を浴びせかけて、論争相手の人格を否定する結果にまで及ぶのは、感情豊かな日本語の世界に第三者の議論(社会言論は基本的に第三人称)の視野が欠けているか、理解が不十分なせいであろう。批判する行為は理性の要件、相手の言い分を分別し真偽や善し悪しを判断するに、悟性が使用される。人間の悟性や理性は、啓蒙主義を唱える者たちが神という親を離れて独り立ちし、聖職者や教会という後見人無しに自らを成人と見なし自立を宣言するに至ったときの、考える自分の秤縄であった。しかし、カントは『啓蒙とは何か』で当の啓蒙主義者たちが「未成年状態」を自ら招いたと厳しく批判する。これについては次回のブログで詳しく語ることにする。今はなぜ日本社会の言論人乃至言論界(ジャーナリズム)が、明治維新期の先達たちの啓蒙主義(ほとんど教養主義に近い)に習いつつも話し言葉で躓き、いまだに言論に対して未熟な「未成年状態」を脱し得ないのか、各々自分の胸に手を当てて考えてみるべき時だ。啓蒙主義に相対する立場は反啓蒙主義であるが、著作家に共感する文化人や文芸批評家たちはすべて後者に属する。「冷たい理性」に対して「感情文化」を対置させ競わせた歴史的経緯が、イデオロギー的に先鋭化した対立の深刻さを物語る。学生読者には、ヴォルフ・レペニースの『三つの文化』をお勧めする。邦訳者が付けた副題は意訳としても、「仏・英・独の比較文学」では誤解も甚だしい。問われているのは比較文学の類ではない、むしろ厳密な意味で「文学と科学の狭間にある社会学」のジレンマ!である。自然科学と精神科学という「二つの文化」論(スノー)に対して、レペニースはためらわずドイツの社会学思想を「三つ目の文化」と呼ぶ。実は、ヴェーバー(「理解社会学のカテゴリー」、「職業としての政治」)が氏の念頭にある。国会議員の諸君も、ぜひこれらを買い求めて精読して欲しい。政治的な善悪判断に予約された諒解関係を批判的に解明することで、社会正義のジレンマを討議的に紐解く仕方、第三者の目線でする冷静且つ妥当な議論の交わし方を学習してもらいたい。ニーチェが『善悪の彼岸』で言いたかったことも、そこから自ずと理解されよう。
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