2012年1月26日木曜日

平常底で「日々是好日」、壁観九年の節目迎え

Jeden Tag sei euch gut, seelenruhig etwas zu lesen, was da ist.   
【2月9日(木)更新、付記追加、データ補正】
 最近は投稿が遅れ気味で、読者の皆様にはご迷惑をおかけしています。多少言い訳になりますが、禅思想の集大成『碧巌録』を傍らにして、ダルマの『二入四行論』に読み耽り、そのドイツ語訳に励み専心する毎日、ですので、肝心のブログにはなかなか手が回りません。前者が完成品であるのに対して、こちらは文章も粗悪で読みづらい、荒削りで未完の作品(語録・断片集の類)ですが、これには禅の根源体験を彷彿とさせる、原石の輝きがあります。(ドイツ語の知識のあるなしに拘わらず、関心のある方は「史的ダルマ研究会」へお越しください。歓迎します)
 日頃から学生たちには、原書のみ読むように注意し、翻訳書や解説書など参照するのは以ての外だと厳しく指示している立場からして、参考書の類は自分では読みもしませんし、人にもお薦めしていません。それでも最近は、読書会で読み合わせる必要性から、わたし自身もやむを得ず買い求めて読んだものが二冊ほどあります。
 言語派社会学の橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対話本『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)と、大澤氏の『〈世界史〉の哲学 古代編』(講談社)の二冊です。興味深く読ませていただきました。問題の所在をずばり指摘される点、常識的な理解を覆しぐさりと急所をつく点で、二人は共通しています。
 橋爪先生は、抜け目のない緻密な論理で読者を圧倒し、なるほどと納得させてくれますが、ヴィトゲンシュタイン流のゲーム理論で、主語論理が通じない歌詠み三昧の述語論的世界、東洋的無に親しむ世界の社会問題がすべてうまく解決するのかどうか、最後まで疑問が残りました。
 他方大澤先生の哲学本は、西洋哲学史を縦断する知識と論争史を前提としており、読んでも初心者には皆目分からないのではと思われます。ミステリーのキリスト殺害事件(キリストの死の残響)から、資本主義社会の成り立ちとその陥穽をつく仕方は他に例が無く、マルクスを引き合いに出して論じる点でも刺激的で圧巻ですが、様々な論者の意見がモザイク模様に鏤められており、たとえ一通り読めても筋書き通り要点を理解することは、学生たちや一般人には困難ではないでしょうか。話をあちこち関連づけないで、もっと論議の的を絞り分かりやすい展開にしないと、読む方の負担が大きく辛いところです。
「日々是好日」は、”Zen - anders denken? Zugleich ueber Zen und Heidegger” (『禅-別様に考える?禅とハイデガーの一試論』、大島淑子) の裏表紙にある私への贈り言葉、いつまた直下型の大地震が関東平野で起きるかわからない、絶えず不安と戦きに苛まれる中で、「平常底」で壁観するにも読書三昧してもらうためにも、この本のように誰もが理解できる言葉で語らないと、真意が伝わらず心が通じません。知識や閃きを披露することが自己目的でない限りではね、大澤さん、聞いてますか?
付記: 副題にある「壁観九年の節目」とは、史的アルマの自身のケースはもちろんのこと、それを真剣に考えるようになった時点から数えて、つまりわたし自身が壁観を始めた2003年から数えて今年は節目の九年目という意味です。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年1月3日火曜日

年頭所感:「絆」で温もる、生活世界の原風景を

Wiederentdeckung einer Ur-landschaft, wo man in den familiaeren Banden leben kann.
【1月25日(水)更新】
新年のご挨拶を申し上げます。明けまして「おめでとう」と言うことがひどく憚れるほど、昨年2011年は深い傷跡を東北の方々にもたらしました。被災者を初め大半の国民が、家族の絆の大切さに改めて気づき、その点で思いを一つにしたのではないでしょうか。長い間、日本社会が家庭崩壊や学級崩壊という人間デフレで苦しんだ果ての震災体験、社会の基本が身近な友であり家族であること、失われて初めて身近な存在者の「絆」(band)の大事さが忘れがたく身にしみて、私たち国民の心を激しく揺さぶりました。
 そこで、今年の年頭所感は、私が学生だった頃の愛読書、フロイトと肩を並べる異彩の精神分析学者、「言語療法」(ロゴセラピー)で知られる、ヴィクトール・エミール・フランクルの言葉をお贈りします。以下はすべて私訳です。
私たちを襲う過酷な「宿命は、大地のように人間に属しています。人間は重力によって大地に縛り付けられています。しかし、それ(大地の縛り)なくしては歩行は不可能なのです。私たちが立っている大地に対するのと同様に、宿命と向き合わなければなりませんが、これを自由に対する私たちの跳躍台としなければならないのです。宿命なき自由は不可能です。(私たちの)自由は、宿命に対する自由という仕方でのみありえます。」(『死と愛』)。アウシュヴィッツという強制収容所の壁を体験した人の言葉、ずしりと重たいですね。過酷な宿命に対する仕方で、つまり彼が重視する「態度価値」乃至行為価値としてのみ、自由があり得るのだという主張には、強い説得力がありますね。その意味で、邦訳の「運命」でなく、自由に余地を残す「宿命」が正解、訳語としてこちらが相応しいと思われます。
「およそ、生きること自体に意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずです。苦しむこともまた生きることの一部であるなら、宿命も死ぬことも生きることの一部でしょう。苦悩し死ぬことがあってこそ、人間という存在は、初めて完全なものになるのです。」(『夜と霧』)。この言葉には、愛する妻を思い彼女との「絆」を獄中から再確認することで、どんな苦しみにも耐える意味を見いだし、決して諦めない、壁の彼方に自由を見届ける前向きな気持ち、容赦なく襲いかかる苦難に負けず怯まず、「それでもなお、生きることに然り(ヤー)と言う」一貫した「態度価値」、宿命に押しつぶされそうな青息吐息の人の言葉でない、不思議なくらい熱い命の息づかいが満ち溢れていますね。
 年頭に当たり、今一度被災者の思いを自分のこととして受け止め、友や家族の絆を、存在の温もりとして、一緒に取り戻したい。「絆のある生活世界の原風景」を描き直す一年としたいと存じます。「家族社会学」については、いずれ時を見計らって論じることにします。改めて、2012年が「絆」を元手に(自分がでなく、他の人が種を蒔いた、その)「実りに与る」体験の元年、飛躍の年となりますよう、皆様のご健勝を心より願いつつ、新年の挨拶といたします。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2011年12月31日土曜日

安全神話の「壁」崩落、衝撃の一年を回顧する

Stoß der zerstörten Wand oder gefallenen Mauer, eine Rückblick
【2012年1月1日(日)、更新】
 東日本大震災(2011年3月11日)は、22年前のベルリンの壁崩壊(1989年11月10日)に比肩する、壁崩落の事件だった。貸し借りを含む分別の世界を、根底から揺るがす大地と大海の力に、驚愕し言葉を失わなかった人はいない。「想定外」の津波被害を食い止めるために築かれた、釜石が自慢する世界一のスーパー堤防(壁)が脆くも崩れ去った。東京電力福島第一原子力発電所の原子炉建屋の壁が、水素爆発で無惨に崩れ落ちた。近代科学に胡座をかいた安全神話の壁が、ことごとく崩れ去ったのである。一連の出来事を目の当たりにして、茫然自失に陥らずに済んだ人は事実一人もいなかった。リーマンショックの衝撃で世界の経済が一挙に混迷し、世界的金融危機に陥って以来の、地震と津波と原発事故という三重苦の傷跡が癒えぬ間に、我々は満身創痍で新年を迎えようとしている。これが予兆に過ぎず、今度は大空の異変から何が起きてもおかしくない、地球文明の破局さえ予感する人がいる中で、大地と大海と天空の運動に翻弄されるだけの、塵にも等しい人の存在に、我々は何を期待できようか。
 いったいどの様な仕切り「壁」を築けば、人間は自然の脅威から身の安全と保証を確保できるのだろうか、深く考えされられる一年であった。「自然の精神」を詠い、超越論的構想力を以てして、自然を越える働きを手中に収めたはずの人間が、「未成年状態」に逆戻りしているのはなぜか。啓蒙主義以来の理性主義(理性神信仰)が、「言葉」という壁の上限を穿った(が、依然「言葉への途上」にある)のに対して、「想定外」の名目で「無」という壁の下限を疎かにしていたツケが回ってきたのだ、と言うことも出来よう。自然の働きは法則を「説明する」ことで納得されようが、社会(ゲゼルシャフト)を構築する人間の働きは説明だけでは足りない、なぜ未だに「未成年状態」であるのか、(行為者の主観的意味を)「理解する」ことが必要とされる。或いは、それだけでもまだ何かが足りない。壁となって働くモノを観る・しるしを見届けることが、来る年の最重要課題となるはずである。壁という概念は多義的だが、さしあたり人格性・身体性の意味で理解しておきたい。
 「理解社会学の工房」では、本年度ヴェーバーよりもフッサールとハイデガーにシフトしたブログを多く掲載してきた。その理由は、大学でのテクスト研究の要請に拠るほかに、来年5月に開催されるプラハ会議での講演を準備する目的からである。読者には、その点をご理解いただきたい。社会言論の世界は、強い風に吹き飛ばされるか大海の波間に漂流する言の葉のモザイク模様、乱舞する表層面に惑わされてはいけない。働くモノは大地深くにあり深海にあり天空の彼方にあり、我々の身体性の秘密を紐解く鍵となる。諸君が神の存在を否定するなら、それに代わって現に其処で自分の壁となって働くモノをしっかりと観るか、崩落した壁にしるしを読み取ることで、納期の迫った師走を背後にしつつ、無事で新年が迎えられるよう祈るほか無い。痛みを伴う決断を先送りすると生涯デフレに陥るので、我が身の人生の納期を自覚し先駆的に死へと歩むにしても、或いは「復活の未来」から今を生きるにしても、「平常底」の決意を常に新たにすることで、青天霹靂の年末年始を迎えて欲しいと願う次第である。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 / 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2011年12月11日日曜日

「目白押し」のXmas-豊かさと貧しさの記号論

Was dem Weihnachtenmarkt  fehlt,  zur Semiotik des Reichtums und der Armut
【12月14日(水)更新、改題、イラスト挿入】
 本格的なクリスマスシーズンを迎え、日本中が震災からの復興特需に肖ろうとして、どこも商いで大忙し。ですが、売りに出されている物と言えば、クリスマスとはおよそ無縁の "X"mas の特価品ばかり。目玉商品というと、クリスマスの時期に乗じて発表される新製品でしょう。例えば、目を見張るダイヤの指輪であったり、お買い得のドレスやバッグに乳母車付きであったり、最先端技術と流行を生かした新車やパソコンであったりします。特製のクリスマスケーキは欠かせないとしても、クリスマス事件の本体に代わる目玉とは言えません。流石に(かつてのキリスト教諸国である)欧米では、クリスマスの工芸品が「目白押し」と言ったところでしょうが、これは装飾品の類です。押し出された子が端っこに行って、中にいる子を押し出すゲームのように、クリスマス祝会ではぐるぐる周りの押しくらまんじゅう、目玉のプレゼント(my X)にたどり着けばそれで御の字、「目白押し」は豊かさの象徴ですね。秋から冬にかけて小鳥のメジロが枝に留まるとき、押し合うように横並びする可愛らしい群れの習性から来たと伝えられています。最新鋭のi-Padやスマホ欲しさに、君たちも早朝から店頭に立ったとき、寒風に震えながら「目白押し」に並んだことがあるでしょう?
     
なるほど、町のクリスマスは目白押しで賑やかに見えますが、しかしその始まりは貧しい人々の祭りごとでした。マタイ福音書(2章)が伝える三人の博士(星占いの学者先生たち)は特例枠として、ルカ福音書(2章)が語り伝える羊飼いの訪問や馬小屋での誕生物語で知られるのは、そのいずれも裕福ではない。その反対に、むしろ泊まる宿さえない、ひどく貧しい佇まい(ein mangelhaftes Wesen an jede Substanzen)です。神が人の子として生まれたという「受肉」(Incarnatio)の出来事は、神(無限者)がご自分を貧しくする(有限を受け入れる)事件でした。その意味で、神の存在が豊かさの記号であれば、クリスマスで話題となる人(幼子イエス)のそれは貧しさの記号ですね。人の貧しさの中に豊かさを宿らせた事件だったというのも、一通り理解できます。
他方で、私たちが自然の働きについて語る場合、自然の恵みを豊かさと言うことはあっても、自然の脅威を貧しさとは言いませんね。自然がギリシャ語のフュシスからラテン語のナトゥーラに翻訳されて以来、生成消滅の消滅部分が消えて、生成し産出する側面だけが注目されるようになった。科学信仰に後押しされた発展思想の始まりです。だから最近では反省を込めて、生態学的危機に対処するには、ギリシャ的自然理解(大地の経験)に戻らないといけないという議論が盛んになりました。ハイデガーも『芸術作品の根源』で翻訳の問題を取り上げ、ギリシャ語のヒュポケイメノン(基体)がラテン語のスブスタンティア(実体)へと訳出されたとき、ギリシャと「等根源的な経験」が無いままで誤って実体と訳された経緯を問い質し、これは由々しき問題だと指摘し、ローマ的思考(「ローマ法」の上に築かれたキリスト教神学・スコラ哲学的存在論)を公然と批判しています。「ギリシャ的大地の経験とローマ的世界の原闘争」とは、相当に挑発的な物の言い方ですね。「物とは何か」という問いが「歴史的」だとすると、ギリシャを頂点とした「芸術の終焉」を語るヘーゲルを避けては通れません。真理論を時間論との連関で論じる際に、ヘレニズムとヘブライズムの何かが混同されていないか、問題が再燃しそうです。
通常、サブスタンスのある人(a man of substance)は「裕福な人・資産家」を指していることからも分かるように、スブスタンティア(実体)は豊かさの記号です。スピノザが『エチカ』で《神もしくは自然》を語り、神を「実体」と言うとき、実体が豊かさの記号であることが示唆され、議論の大前提となっています。したがって、貧しさの側面が記憶面から消えていったのは、自然の成り行きと言えるでしょう。クリスマス神話を紐解く鍵は、「自らを貧しくする」と言うケノーシス論の課題、ずばり記号論的な意味合いを持つ神話的言語事件です。
にもかかわらず、クリスマスと言うだけで新製品の発表に「目白押し」の来客を期待して、商機を捻出し画策する為には形振り構わない、入れるべき肝心の目玉がない・眼目を坐視した商慣習にはうんざりします。せめても、人形のダルマさんに「目を入れる」ような、それなりにクリスマスらしい目玉(メルクマール)が欲しいものです。社会言論としては、「らしさ」を演出するコマーシャル論の課題ですね。目玉に当たる「それ」がないと、「諒解関係」に必要な信頼価値が失われます。
そこで、最後に諸君に聞きたい。豊かさを決める自然らしさ・本物らしさ・人間らしさ・自分らしさの「らしさ」とは、いったい何でしょうか?
ヒント:「らしさ」については手持ちの辞書や事典で調べること。自分らしさの指標、時の重さ(豊かさ)を量るには、エスの天秤にかけてみること。(前回のブログ参照)

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011, by 宮村重徳, the institute for Rikaishakaigaku

2011年11月22日火曜日

時に重さがあるか、エスの天秤にかけると…

Ob und wie die Zeit zu wiegen ist, die Rede vom "Es", was an und in uns wirkt. 
【12月07日(水)更新、改題・改訂、一部カット】
 周知のように、気象を含む自然現象の主語は、神話の主(神々)でなくエス(es, it)である。物理現象の因果関係に、起成因以外の説明は不要なので、非人称で中性名詞のエスが使用される。津波を伴い原発事故にまで及んだ今回の大地震は、通常海底プレートが移動する際の摩擦や歪みで生じたものと理解されている。最近では、地殻のマグマが対流を起こす結果だという新説が俄に注目されている。
 異常気象について最近の身近な例を挙げると、一方では北アルプスの立山連峰に氷河発見の報道(11月16日)があり、温暖化のせいで世界が氷河消滅の報道で沸き立つ中、今なぜ日本に氷河かと話題になっている。他方では、房総半島南部の館山の近海で珊瑚礁が発見され、年に14キロも北上したという報道(1月23日)が過去の記録を塗り替えている。そのいずれも、寒暖の差が産み出している「玉突き現象」である。
 自然には季節があり時間も繰り返すのみと理解されているが、自然の時間経過が必ずしも決まり切った循環(永劫回帰)を再現していないようにも見える点に、我々の関心が集まる。それでも、マクロ的にはそれぞれの起成因があり、すべてが熱エネルギー交換による必然の成り行きということになのだろうか。原子力発電の構想も核エネルギーの利用である限り、必然に端を発する多様な働き(過酷事件)に対応し得るかどうか、道具を使う人間の技量は、想定を超えて働くモノ(エス)の本質理解に於いて試される。技術開発による自然支配と征服という欲望にとりつかれた近代人(目的合理主義者)は、今一度、スピノザの世界(「神もしくは自然」)に学ぶよい機会かも知れない。
 さて、自然の時間経過と異なり、人間は固有のタイマー(時のセンサー)を持ち合わせており、自分を意識して対他的に語り振る舞う際の、言葉と行為の秤縄としている。たとえば、「光陰矢の如し」と言うは時の喩え、矢のように過ぎる時(光陰=日と月)は誰彼となく、ヒトに於いて働くモノ(エス)を内外に意識させる、光のメタファーである。存在の陰(影)を作るのは光だから、基本はバイナリーである。陰で量る日時計や慣用句の「お陰様」にして然り、バイナリー仕様のデジタルタイマーもまた、エスの働きを代行する妥当な時間算定システムとして、「手許存在」(Zuhandensein)を把握するに有用な道具と言えるだろう。
 過ぎ行く時の流れが早すぎて、「それ」(エス)は各自の悟性(理性や感性のフィルター)に言葉になる暇(いとま)を与えない。「秋もたけなわ」と感慨に耽り嘆息する間も与えず、唇寒し冬将軍の到来に慌てふためき、「何するモノぞ」と色めき恨み節を語る口実ともなる。猛暑の夏の後に極寒の冬到来で、春の息吹と秋の実りの時があまりに短く、気がついてみたら過ぎ去って其処にはない。四季が失せつつある変状を嘆くのは人間のみの語り草。「たけなわ」とは、比較的短い期間しか続かない状態を指して言われる、「酣」(酒に酔った気分で盛り上がる、酒宴のピーク、真っ盛り)或いは「闌」(尽き果てようとする、終わりに向かう、年の暮れ)と、二通りの漢字表記がある。酣や闌は音読みで同じカン、酣は今が「旬」、闌は今が盛りの「ピーク」を指す言葉、「今」は闌(訓読みで「たけなわ」)、ヒト(ペルソーナ)に於いて働くモノ(「それ」、非人称のエス)の秘密である。
哲学史上、時間はカテゴリーであり「直観の形式」であると、最初に定義したのはカントである。フッサールもこの点では変わらない。これに異議を申し立てたのが、プラグマティストで記号学者のチャールズ・サンダース・パースである。パースは「形式としての直観」を疑い、「直観ではない理解の様態」として「推論」を持ち出す。カント派の直観理解を否定し、「超越論的主体」に代えて個別の「経験的主体」を主張する点で他に例が無く、その是非はともかく(別途に論じることにして)、ソシュール以来の衝撃的なインパクトを私に与えた。議論の詳細は、サントリー学芸賞の対象となった菅野盾樹氏の『我、ものに遭う-世に住むことの解釈学』(新曜社、1983年)で確かめてもらいたい。重厚なドイツ系理想主義(観念論)哲学と異なる、フランス系哲学の軽快で自由闊達な思索を特徴としている。
いずれにしても、時間を刻む「もの」は、シンタックス上は非人称の主語エスに他ならない。カントやヘーゲル、マルクスやヴェーバー、フッサールやハイデガーの誰であれ、避けて通れない関門としてある。ブーバーが「根源語」としての『我と汝』(1923年)との関係でエスをネガティブに評価し、他方フロイトが神経医学的にポジティブに評価したエスは、万人に突きつけられた喉元の刃、患者が無意識に封印したモノが科学的に解明される(『夢判断』1900年)。今このブログを読んでいる君たちも、このエスの問題を避けては通れない。パースがこのフロイトを批判して、「夢見る」ことと「想像する」また「知覚する」ことの作用には、決定的な違いがあると主張する。実はこのエスは、対話の文法で露わとなるユダヤ的知性の秘密であり、これが意外にも現象学や社会学を含む諸科学が抱えるジレンマ解決へのヒントとなる。「神もしくは自然」・「神もしくは貨幣」という古典的モデルを解釈(非神話化・脱呪術化・脱構築)する際に、人格性(重さ)に対して非人格化(軽さ)の理解が常にネックとなっていた。働くモノとしての「それ」は、夢判断という深層心理学的な要件だけでは片付かない。私の関心としては、むしろ不在の仕方で働くモノ、つまり資本主義的精神の現象学、ひいては持論とするケノーシス論の要となる。
働くモノとヒトの理解は第三の解釈項にかかっており、根源関係を把握するには「解釈学的循環」を自ら敢行する真理論、個別には「存在の仕様・現存在の技法」(die Kunst des Daseins)が必要となる。したがって、あれかこれかの二者択一ではない。スピノザに於いては、「所産的自然」と「能産的自然」は同一なる実体(「神即自然」の存在≒働く物自体)の延長せる二つの属性であった。ギリシャ語からラテン語への翻訳がネックとなっていると、ハイデガーは『芸術作品の根源』(1935年)で指摘しているが、当然スピノザの古典的存在論もその視野にあろう。
カントは「物自体」を認識不可能としたが、ヒトに於いて働くモノの存在まで否定はしていない。それは働くモノの現象態であるから、フッサールにとっては現象学的認識の課題となる。パースの発問との調整は難題ではあるが、おそらく長山恵一氏が説かれる「理解社会学と精神科学(精神療法学)」の立場であれば、了解可能な接点を見出し得よう。
ところで、流れる時の速さに重さが関係していようか。通常、軽ければ流されやすく、身の軽さが見くびられたり軽くいなされたりする原因となるが、反対に重ければ流れが悪く、吹き溜まりとなるかいずれ渋滞する。時の流れの速さ遅さは、軽さ重さと無関係ではない。充実した時間であれば短く軽快に感じられ、退屈で空疎な時間帯は遅く鈍重に感じられる。では、時間は質量の問題でなく、感性が受容する意味論的仕様であると言えるだろうか。エスの天秤(Wiege vom Es)にかけると、確かに人の時には重さ・軽さの意味合いがある。因みに、天秤は「揺りかご」でもある。時の比重は人それぞれ、「臍の緒」の切り方で判明する。
別の例を挙げよう。君たちは口癖のように、「時間がない」と言う。しかし、公共の時間は万人平等に共通して与えられている。「時間がない」と感じるのは、自前(自由且つ気儘に)に使えるプライベートの時間がないという点で、主観的意味合いの時間、つまり余剰として楽しめる軽い時である。「時間は貨幣である」というフランクリンで言えば、貨幣がないか十分でないことが、自前(自由且つ気儘に)に使える時間がないという結論になるだろうか。逆に言えば、自前(自由且つ気儘に)に使える時間がないのは、貨幣がないか十分でないことに起因しようか。そのいずれも全くの間違いである。「時間は貨幣である」という考えは、時を惜しんで働くことには、それ相応の貨幣価値(重さ)があるからであり、時間を割いて働いて得た富を貯蓄しその富を選ぶ神に返すのだという、節約して旅装束の身を軽くする禁欲主義的生活態度に基づいている。
「イギリスのヘブライズム」として知られるこの考えが普及し定着するのは、アメリカ新大陸でのことだ。アダム・スミス流の功利主義的考え(道徳感情論)を脱し、「時間は貨幣で有る」と内外に宣言する。厳密には存在論的と言えないとしても、間接的な比喩的表現(重厚な寓喩や直喩)を好む牧師のバックスターと異なり、科学者・政治家のフランクリンは軽快なメタファー(隠喩)で語る。その語りは功利主義的ではない。「時間は貨幣で有る」とメタファーで語るその真意は、パース流の記号学的な再帰的自己の表現(理解の様態)と取るか、或いは理解社会学的に読んで初めて正しく解明できよう。確かに、「時」には体験や経験の重さが有る。時を遂行するエスは、上限・下限(言葉と無)に迫る際の大切な解釈の鍵を握る。詳細は分析済み、いずれ一般社会学言論講義で取り上げる。

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