2016年5月12日木曜日

京大の思い出と反省、げんて ん皆無とした理由について

二〇〇九年十一月十一日から十二日にかけて、京都大学で開催された日本宗教学会主催の第六十八回学術大会に於いて、「史的ダルマ論の試み、生没年の秘密」を発表して六年が過ぎ、はや七年目に至る。仏教学対象の第九部会で発表するのは初めてだったために、当時その場に居合わせた方々の一部過剰な反応には驚かされた。今振り返れば、祖師ダルマの伝承を巡る宗門間の討議状況を知らずに臨んだ責任はあったかもしれない。短い時間内で論点を纏め、こん詰めて発表したせいもあり、言葉足らずだった点は否めない。
その直後、関西で教会施設への消火器投げ入れ事件があったことを新聞で知り、もしやと関連性を疑ったが、心に留めたままにしておいた。二〇一三年頃から、You-Tubeで盛んに禅をやり玉に挙げる動画が流されるようになり、正直に驚いた。まさか私の研究が悪用されているのではと心配するに至り、二〇一四年のブログに「げんてん皆無の現状では、誤謬推理が跋扈しよう」の記事を投函した次第である。禅に学びダルマを慕う故の歴史研究であるのに、事実関係は不明だが、仮にであれ、禅を誹謗し罵倒する材料に使われるとは思いもよらなかった、心外だったからである。単刀直入な物言いで気持ちを害された方がいれば、この場を借りてお詫びを申し上げたい。
 
 覚え書き:その時のブログに匿名者の書き込みがあり、言葉の行き過ぎを注意されたが、あれはYou-Tubeで逞しく罵声を浴びせかけた人たち自身の経文にある言葉をお返ししに過ぎない。「餓鬼」云々は、私が勝手に使った言葉ではない。
個人的な所感であるが、サンスクリット語の文字や原典の権威に依存しない、「げんてん皆無」(不在の精神)でこそ、原点を通る直線や法線が自在に描けると今でも確信している。反論があったらお聞きしたい。
自ら壁観して九年、対話を望む心に於いては誰にも負けない、十分な覚悟が私にはある。茶室にて対座し、お茶を啜りながら分かり合える機会があれば光栄である。今秋早稲田大学で開催される宗教学会でお会いし、膝を交えて直接に意見を交換できれば嬉しい限りである。
この際に読者に臨むことは、対話を望むお気持ちがあれば、匿名でなく堂々と名乗りを上げてもらいたい。それだけである。無名の法師に徹し寂然無為で臨んだダルマには、それなりの理由・避けがたい事情があった。高度情報社会の今日では、匿名性はむしろ対話の牆壁となりかねない、無明に陥るリスクを孕んでいるから、名乗りあうことで初めて真摯な対話が成り立つと私には思われる。
5月13日(金)更新
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved, the Institute for the Interpretative Sociology Tokyo

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