2011年9月14日水曜日

君はアバターなの、それとも人間してますか?

Bist du ein Avatar, oder tust du was, wie ein Mensch mit dem Gesicht zu sein?
【9月20日(火曜日)更新】
  アバターは、神々の「化身」を意味するサンスクリット語のアヴァターレ(Avatare)に由来します。グローバルコミュニケーションの世界では、グラヴァター(Gravata = global + avatar)と言い換えられています。インターネットが普及している今日では、自分の化身や分身となるキャラクターイメージをアバター(正しくはアヴァター)という。自分のイメージやジェンダーを偽る・偽装することが出来るので、自分を着せ替えたいという変身願望の世代に好まれているようです。化身のアバターと仮面(マスク)や外観を意味するラテン語のペルソーナが混同されている嫌いがあるので、格別の注意を要します。
 さて、恥も外聞も必要としない一見して不惑のアバターと、恥や責めを負えばすぐに歪む弱々しい人の顔を選ぶ(自分のマスクを選ばなければならない)としたら、君はどちらを選ぶでしょうか?愚問だと思ったら応える必要ありませんが、ゲームする匿名者にしても仮初め(非正規)の労働者であるにしても、気がつくと周りにはアバターのマスクした人ばかりだから、この問いは有効なはずです。いずれであれ、ご自分の意見を述べる際に、その理由を一言明記してください。
 アバターで何者かに成り済ます結果、トラブルに巻き込まれるケースが多く、それが自己責任だとしても、「人間やめました」と悲しい捨て台詞を残して、人生の舞台を立ち去る前に、現に其処で働くモノが何か、首がなければトルソーの、エスを自分(社会的自己)の問題として、最後に一度はよく考えてみて欲しいですね。変身であれ役割交換であれ、ゲームにルールがあるのは当然、それでも僕たちは所詮「人間だもの」(相田みつを)ね、繕えない破れかぶれ(破格の要件)があって当たり前だとしても、結局誰も「自分の顔に責任が持てない」のでは、困ったことになります。ここでは、「機械仕掛けの神様」(Deus ex machine)や悟り済ました無表情の仏様無しの無礼講で、どうぞ自由に呟いてください。
「人間する」って言うと、違和感があるでしょうか。ラテン語でペルソーナ(人格)の動詞形、ペルソナーレ(呟く自分の「声を響かせる・響き渡らせる」)に起因します。グローバル文化に対して見せる自分の顔は、個を大事にするローカル文化の要(かねめ)です。顔は見え方(外観)の用であり、それも見せ方次第です。注意してください、見せたい心(主観性)と現に魅せるモノ(客観妥当性)がないと、相手に伝わりませんよ。さぁ、どうぞ、全身を耳にしてお聞きします。
 (実名・匿名の判断はご自由に。年齢は不問、唯物論や唯心論、理想主義や実証主義、無神論や有神論など、立場や身分の違いを問いません。学生諸君に限らず社会人の皆さんも、自分で正直に思うところをどしどし書き込んでください。楽しい投稿をお待ちしています)

Shigfried Mayer (宮村重徳), copyright all reserved 2011, the Institute for Rikaishakaigaku

2 件のコメント:

  1. アバターと自分のマスク、そのどちらかを選ばなければならないとしたら、私は自分のマスクを選びます。なぜならアバターとは、森田療法でいうところの、「かくあるべき」という自分の理想にとらわれている状態と思えるからです。当然「かくあるべき」自分と「かくある」自分との間には葛藤、理想と現実のギャップが存在します。それは向上心を生むものでもありますが、それを肥大させてしまうと「繋驢桔」に陥ると説いているのが森田療法ですよね? 人の顔は確かに、恥や責めを負えばすぐに歪んでしまいます。しかしそれは純な心の作用である限りなにもやましいことではないわけで、「できること」と「できないこと」を知り、あるがままの状態を認める勇気が、現代人には求められているのではないでしょうか。そしてまたその勇気を持っている人間が、私は「自分の顔に責任を持っている」人であったり人間している人であったりするのではないかと思います。

    またDeutsche Lektüreにて、mündigについてまとめてくださりありがとうございます。クルーゲを読み直してみます。

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  2. 芳賀さん
    ご指摘の通り、斯くあるべきと念ずる理想イメージが足枷となって、適応できていない自分の現実との間でギャップが生じる。これが「繋驢桔」(けろけつ)というジレンマを生んでいる。自由(の身)でありたいともがけばもがくほど、驢馬に繋がれた縄が杭に巻き付いて身動きが出来ない状態に陥ってしまう、ということでしょう。森田療法の真骨頂は、「あるがまま」の再発見ですね。ただ、「あるがまま」は「なすがまま」ではないことに注意すべきでしょう。あくあでも対症療法です。社会的自己の無責任状態を放置することではありません。ジレンマから解放することで、自然体を取り戻す(出発点に立ち帰らせる)ことに狙いがあり、社会復帰(「自分の顔に責任をもつ」状態の回復)はそれからです。それは、疑わしい主観性(自分)を「一旦括弧に入れる」というフッサールの方法にも、どこか通じるものがあります。いずれにせよ、アバターでなく「自分のマスクを選ぶ」にも、「あるがまま」を生きるにも、「存在への勇気」が必要ですね。森田療法については芳賀さんの方が詳しいので、いろいろとご指摘いただければ光栄です。

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