2011年9月4日日曜日

ドジョウの政治美学、復興への「一歩後退」

Politische Besinnung als Schlammpeitzger und ein Schrittzurück zur Wiederaufbau des Landes
【9月9日(金曜日)更新、画像追加】
 江戸後期の国学者高田与清の松屋日記に、どじょうのことを「泥鰌、泥津魚の義なるべし」とある。柳川などで食材として好まれ、当初は縁起を担いでドジョウの四文字を避け、「どぜう」と三文字で表記されていたらしい。中国語で泥鳅、ドイツ語で Der Ostasiatische Schlammpeitzger (学名: Misgurnus anguillicaudatus) の名の通り、東アジアの水田や湿地帯に棲息する淡水魚で食用魚である。泥土に潜み土砂に攫われても生きる強か者か、水面下の根を食い尽くし根こそぎにする困りものの象徴であるかは、どうでもいい。どちらも無縁な話ではないが、以下で述べるブログの論点から逸脱する。その昔出雲の国で砂鉄採取の所作を滑稽な踊りにした(渡部お糸怍の)「安来節」に由来すると言う、「ドジョウ掬い(すくい)」の楽しいこぼれ話と同様、ひとまず括弧の外に括りだしておきたい。
泥臭い政治を標榜し鳴り物入りで新首相に選出された若年54歳の野田住彦氏は、自称ドジョウの政治美学的感覚で、果たして震災復興の正夢(ヴィジョン)を叶えられるのか、国民は期待するも不安げにその言動を注視している。自分をドジョウに喩えた野田氏の発言が、詩人の相田つみをの詩からヒントを得たのだとすると、謙虚に政治家の本分を弁え、日の当たらない地味な働き(黒子役)に徹する自覚的限定の表現と思われる。当の相田氏は、足利中学校卒業後歌人の山下陸奥に師事。1942年に曹洞宗高福寺の武井哲応と出会い、在家で禅の仏法を学んだ異色の経歴を持つ人。野田首相は、松下政経塾でなされた氏の講演をお聞きになったのだろうか、周知のように、第2詩集「おかげさん」(ダイヤモンド社、1987年、1989年)に収録された「みんなほんもの」から、「どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ」(107頁)の一句を参照しておられる。この比喩(メタファー)は、小沢一郎・元党代表に近い輿石幹事長に紹介された経緯があるとしても、情報取得のルートはどちらでもいい。直接書を手に取り、自分でオリジナルの一句を確かめ、茶を啜りながら素読し味わうのが一番。今は絶版で手に入らないので、次の画像の筆跡から味わいの豊かさを確かめていただきたい。 


                     
政治言論の泥濘(ぬかるみ、Schlamm)に足を掬われ立ち竦まないために、また立ち上げたばかりの内閣を一過性のやっつけ仕事(Schlammperei)で終わらせないためには、「我思う」の言いっぱなし(唯我独尊のガチンコモード)でなく、何よりも互いの行為(身体各部の働き)を予想しこれに準拠して期待に応える「おかげさん」の気持ち(Dank dem Schatten des Selbst、お陰さん、影有ってこその自分、縁は陰と日向の相互信頼に基づく対話路線)が、国民のための政策実現・政党間の合意形成に大事ということだろう。「いいことはおかげさん、わるいことは身から出たさび」(みつを『にんげんだもの』、縁起十二章、文化出版局、1997年)。
ヴェーバー社会学では、意味の上で他の人がすることに関係づけられる行為をゲマインシャフト行為という。通常ゲマインシャフト行為では、経験妥当な蓋然性があるかどうかで、合意と諒解は区別される。シャンスとしての諒解は、仏教の縁に相当しよう。コンフリクト(利害絡みの葛藤・抗争)が生じた場合の曖昧な受け答えについて、ぬるぬるとして掴み所のない人心に代えて、禅で働くモノ自体(「安心して無為」の働き)を壁に観ると言うも、ダルマの法を看破するために「以心伝心」と言うも、その心は曖昧な「暗黙の了解」(Stilschweigende Übereinkunft)でない、叢林に於ける「諒解」関係の要件を満たすもの、言葉の厳密な意味での「諒解ゲマインシャフト行為」(Einverständnis-handeln)の理解の仕方・陰に陽の受け止め方次第で、為政者また国民の真意が問われることになる。
さて野田さん、あなたが国民の期待をずばり予想し見事に応えられるかどうか、政治と社会言論の正義は美学の課題としても「平常底」ですること、晴れがましさのない・力みを見せない、地味で地道な実践の積み重ね以外の何ものでもない。敢えて「泥を被る」(ご本人)と「泥まみれになるだけ」(亀井氏)の応酬では済まない、ドジョウ掬いのパフォーマンスだけでは、「笛吹けど誰も踊らず」終いだから。泥を捏ねて煉瓦を作る工夫にヴィジョンが必要だろう。その際には、煉瓦に麦わらを入れることをお忘れにならぬよう、補強には呉々も細心の注意を促しておきたい。煉瓦に入れる麦わらが何かは、自ら考えて知るべきあなたへの宿題としたい。党派的勢力争いや官僚との戦略的突っ張り合いの「悪夢」(Trauma)はもうこりごりだから、本気で国民に「正夢」(den Traum, der sich als wahr zu erweisen ist)を見せて欲しい(昨年12月の私のブログ記事『ツィートに、足りぬ煉瓦のヒント得て』を参照せよ)

付記: 野田新内閣の政策と陣容からして、傍目には政治主導から官僚依存へ後退するのではないかと見える、或いは危惧される人も少なくないと思われるが、震災からの復興が願われる中での有意味な歴史的「一歩後退」(ein Schrittzurück von Bedeutung)であったと後世から称えられるような、泥臭く且つしぶとい政治改革の貫徹(Durchsetzung)に繋がることを願いたい。 一つだけ、A級戦犯を許容するかのような発言は外交問題にまで発展しかねず、要注意である。不注意な発言から、首が飛ぶようなことがないよう、為政者には注意してもらいたい。個人的には、「くさびだから一番大事なところへうつ。くさびだからみえないようにうつ」(『おかげさん』、48~49頁)の一句に、共感している。…

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku