2011年4月18日月曜日

政治の《技量》が試金石に、収束へのシナリオ

Unschüsselige Politik und ausbleibende Techinik der  Bürokraten sind reif zum Abbruch.
【4月28日更新】 
 2011年4月17日(日)、東京電力の勝俣恒久会長が記者会見で、福島第1原発1~4号機の「収束工程表」を発表し、原子炉内の水が100度以下で安定する「冷温停止」になるまで、最短でも6~9カ月かかるとの見通しを明らかにした。ひとまず、最悪のシナリオは避けられた。福島原発の事故が同じ危険度のレベル7(深刻な事態)に引き上げられたとはいえ、前回わたしが予測しておいたとおり、第二のチュルノブイリとはならない「見通し」が示された点では、一応の評価をしたい。しかし、IAEA(国際原子力委員会)のフローリー事務次長がその報告を受け、ウィーンの本部で12日に記者会見した際に、福島原発とチェルノブイリ原発の二つの事故は「構造や規模の面でまったく異なる」と指摘している。曖昧な日本語では分からないが、今回の日本原子力安全保安院の発表はいかにも唐突である。では、ロシアの当局が伝えるような「政治的判断」だったのだろうか。わたしは必ずしもそうは思わない。ドイツ語で言えば、「見通し」の発話がまだ現実話法でなく、おそらく接続法第二式(仮定法)の範囲を出るものでないと考えられる。但し、外交辞令として希望的観測を述べたに過ぎないのではなく、それなりに事態(国際的影響関係)の深刻さを受けとめたいとする覚悟性と、収束への手順を踏まえた率直な決意表明と受けとめたい。下限のリスクを見極めるにまだ迷いがあるのだろうか、この「収束工程表」の推進自体を妨げる「想定外」の事故が起きることは想定されていないように見える。発話の真意がぶれる曖昧なこの一点に、海外在住の読者の注意を促しておきたい。いずれレベルダウンし事態が工程表通り収束に向かうとしても、グローバル時代に於ける「諒解」妥当な社会言論の如何にが、よりいっそう真剣に問われる所以である。
 今回の原発事故で明らかになったことは、政治家の非力さ(決断の遅さ・政策実現への説得性の無さ)と、リスクに立ち向かう下級官僚の凄さ・技量のすばらしさである。東京都消防庁のハイパーレスキュー隊も、消火活動に動員された警察官や自衛官の部隊と同様、国家に仕えるお役人、つまり末端の位でも立派な官僚たちなのである。彼らが自己犠牲を厭わない「侍」の末裔であるという海外メディアの賞賛ぶりには、正直に言って驚かされる。ドイツと同様日本の官僚たちは、位の有る無しに拘わらず、滅私奉公を肝いりで実践する。我が身の危険と死を恐れたりはしない、ただそれだけのことである。臨済が言う「一無位の真人」(しんにん)の境にはほど遠いとしても、日常世界では近接性のある原風景であろう。身内を失っても挫けない東北人の粘り腰、強さと優しさに仏教的精神の素養また背景があるのは間違いないが、それは官僚の問題とは別であろう。官僚組織の一員である彼らには、自分の命を賭して国を守る義務・国民を助ける責務があるのだ。国会でどたばた会議や泥仕合を演じることしか能がない国会議員たちを見る限り、評価する国民の厳しい目線に変化の兆しをみることは望めない。国家百年の計に立った政治哲学と政策実行力、何よりも国民をなるほどと頷かせる説得性のある言語能力が問われることになろう。私が提唱するところの「社会学言論」は、諒解刷新の為に狼煙(のろし)を上げることである。
 ハーバード大学のサンデル教授が独自のコミュニタリズム論で彼らを賞賛するのは、中国官僚の頽廃ぶりやアメリカ合衆国官僚のさじ加減(自己犠牲的行為に金銭的保証と報償を求める打算性)を告白しているに等しい。その彼らは一様に、リスクを売り物にはしても、本当はリスクの怖さを知らない。リスクを知らない美学は、頭痛を一時和らげるだけの鎮静剤のコマーシャル論である。では、危機的状況を収束させるに必要なことは何かと言えば、自己再建を助ける「見事な技術」(Schöne Kunst)である。その為に、カントの『判断力批判』とフッサール晩年のマニュスクリプト、更にヴェーバー理解社会学への学びは必須となろう。しかし、それでも何かが足りない。下限のリスクについては、ハイデガー(とその弟子大島淑子『禅、別様に考える』)との取り組みを避けて通れない。個人的な関心で言えば、ケノーシス論の今日的課題・明日のリスクを引き受ける社会的自己の要件として、「官僚論」は見逃せない。もちろん、かく言う私が官僚政治を弁明する立場にないことだけは、明言しておきたい。公共性のマスクをしたヒトの巧みな働きは、君たちが期待するほど真っ直ぐではない。「公共の哲学」といえども、考えるところは標準的で公平に見えても、リスクに身を晒すときの遂行の実態は極めて複雑である。趣味を嗜む日常性が脅かされる不安が有るからであろう。「繊細なる精神」論でない、手応えのある諒解ゲマインシャフトの「身体論」が求められていよう。
 「官僚依存からの脱却」をモットーに掲げながら、民主党は政策実現に失敗しているのではないか、国民の不安は募るばかり。それは、政権を自民党に戻せば解決するといった単純なことではない。官僚丸投げの自民党政治に期待できる明日はない。では、無差別に働くモノ(自然の猛威)から国民の生活を守り平和と安全の社会(ゲマインシャフトの正義)を実現するのは誰なのか、(最後は共産党か公明党かなどと、他人事のように)安穏と言い争っているときではない。忘れてはいけない、長い間東電を甘やかし原発危機対策を蔑ろに放置させてきたのは自民党政権であり、連立を組んだ公明党の諸君も責任を免れない。首をすげ替えるだけで、トルソー(胴体部分)が変わらないとすれば、元も子もない。霞ヶ関の高級官僚たちを尻目に、無位に甘んじる下級官僚たちの技ありの力量を抜きにしては、君たちの自由と安全が保証されないとすれば、政治が官僚の技量を謙虚に受け入れつつ、自分たちの党派党略的見せ場作り(作為性)をかなぐり捨てて、国民総意の「命の安全と安心」が保証される、相互主観的に「諒解」可能な環境世界を構築することへ目的意識を一段と高め、普段にリスクと向き合う生活世界の技法と手技(Kunst)の万全を期して、「平常底」に生きるヒトの知恵を結集する以外にはないではないかと、私は問い返したい。働くモノとヒト(res et persona)がよく共鳴する「諒解関係」のゲマインシャフトをグローバルに実現するという課題、それは理論理性と実践理性の批判的課題を手綱で橋渡しする、厳密な意味で「21世紀の美学」の課題となろう。政治への関心の有無に拘わらず、テクスト研究「主観性の世界と芸術作品の根源」の受講乃至聴講、せめても当ブログでの討議への参加を期待しまた歓迎する。

追記: 
 4月23日(土曜日)現在、仏原子力大手アレバ社による放射能汚染水の徐染施設の前倒し設置と、USAの軍事用ロボットによるモニタリングが実施されている中、 早期の成果が期待される。今でも振度4~6程度の余震が絶えない毎日だが、その数も日を追うごとに少なくなっており、遠からず危機的事態が沈静化し収束するのも間違いない。後は、被災地の復興が目まぐるしく進行する中、「想定外」の地震や津波による原子力施設への影響がこれ以上無いことを祈るのみである。
 
Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku