2011年4月6日水曜日

「水と安全」は、ただでは手に入らない

"Wasser und Sicherheit sind nicht umsonst zu bekommen" (Isaja Ben-dasan)..  
【4月6日更新版】 
「水と安全は、ただで手に入る」ものと日本人は考えているが、実はそうではないと反駁したのが『日本人とユダヤ人』の著者イザヤ・ベンダサン(山本七平)である。この警句が示唆していた安全神話の脆さを、東北関東大震災による原発事故を目の当たりにした読者は、直に実感し痛切に思い知らされたのではないか。判断の明暗を分けるのは、水資源に恵まれた環境から来る安全への無頓着さではなく、頬被りする「危うさ」の問題であり、その尺度の違いである。未曾有の危難を乗り越えるには、人為的な限界認識の危うさ(擬制の仕組み)を見破ることが必要となる。
はたして原子力の平和利用は、東京電力福島第一原発事故を受けて破綻するのだろうか。徒に恐怖心や疑心暗鬼だけが先行する中で、人間が誇る先端技術科学が危機を迎える際の「限界」認識について論じておきたい。個人的な所感を申せば、日本はこの危機を粘り強く乗り越えるだろう。信頼できる情報筋からの話として申し上げると、第二のチェルノブイリ原発事故とはならないと思われる。その証拠に、関係者の命がけの献身的な作業が今も不眠不休で続けられており、原発の冷却システムが比較的安定し始め、放射能漏れも高濃度とは言え一部の水たまりに限定され、収束状況にあるわけではないが一応コントロール可能な範囲に収まってきており、ひどく危険な拡散状況ではない。とは言え、危機が去ったわけではない。四つの震源が連動して起きた今回の事件は、「想定外だった」で済まされない、そういった言い訳が通用しないことだけは肝に銘じておかねばなるまい。国難の危機は過ぎ去り、日本はよく耐えた・危機を乗り越えてくれたと誰が賞賛し誰が賞賛されようとも、自然災害と人的災害というダブルパンチへの備えの不十分さと見通しの甘さへの反省は、今後否が応でも必要とされよう。
毎日新聞ロサンゼルス支局吉富裕倫特派員の4月3日付の報告では、「東京電力福島第1原発と同型の原子炉を設計した米ゼネラル・エレクトリック(GE)社の元技術者、デール・ブライデン バー氏(79)が毎日新聞の取材に応じ、原子炉格納容器について「設計に特有の脆弱(ぜいじゃく)さがあった」と指摘した上で、開発後に社内で強度を巡る議論 があったことを明らかにしたと伝えている。GEでマーク1の安全性を再評価する責任者だったブライデンバー氏は、75年ごろ「炉内から冷却水が失われると圧力に耐えられる設計ではないことを知り、操業中の同型炉を停止させる是非の議論を始めた」。当時、福島第1原発を含め約10基が米国外で稼働中であった。上司は「(電力会社に)操業を続けさせなければGEの原子炉は売れなくなる」と主張し、議論を封印したと指摘している。やはり、経済的利権が絡んでいたようだ。当初から、破綻するとデリバティブ以上に怖い人類の末路が予想される、リスク商品のインフラを売り物としていたのだ。昨年十月に日本原子力安全委員会が纏めた報告を東電は入手しており、対策を渋っている。そんなことを言い始めると「商売にならぬ」が本音と言うことだろう。すると、今回の原発事故は想定範囲内の人為的災害だったと言わざるを得ない。もし脆さ・危うさを排除できない設計ミスが事実であったのだとすると、これは人間の尊厳性を無視(後回し)した由々しき倫理的問題を抱えており、今後日本を含め国際社会の原子力利用と危機管理を議論する際に、避けて通れない重大な討議課題となろう。 
→ http://mainichi.jp/select/weathernews/news/20110330dde003040003000c.html 
とりあえず大事なことは、月並みの言い方で恐縮だが、「災いを転じて福となす」(Aus der Not eine Tugend machen)に必要な、断固たる決意と実行力であろう。古来日本人は、「雨にも負けず風にも負けず」(宮沢賢治)、幾多の自然災害にあっても挫けず、辛抱強く危難を耐え抜いてきたではないか。後は、自然の変則性や人為的失敗から何を学ぶかである。100年・500年の計では足りない、1000年の計で対策を練り直す必要があろう。超自然の神でも想定しない限り、自然は誰かが憎くて地震を起こすわけではなく、人間界を滅ぼそうと企んでいるわけでもない。地下のマグマの熱伝導でプレートが軋み、大陸間の軋轢(力のアンバランス)を調整しているに過ぎない。対策を練るべきは、危うさに疎い我々人間自身についてである。結論から申し上げれば、危機意識は人間知の陥穽、己の「限界」(Grenze)を知ることにあり、それは取り扱う仕方・方法論の類でない、主観的措定を越えて働くモノ(エス)に対する人自身の有り方と深く関係する。専門人の方法論や技術的存在の仕様(Seins-weise)云々でなく、人としての有り様(Seins-art)のことだ。科学者も政治家も、職人や芸術家と変わらず考え方はリニアルでない、「真っ直ぐでない」(一筋縄に行かない)、「複雑なことを考えたがる」(『コヘレト』7章29節)点で同じであろう。
「複雑なことを考える」とは、ドイツ語では viele Künste machen (「多くの芸を編み出す」)ことだ。程度の差はあれ、面倒な複雑系(Komplexität)に係わる限り、技術(Technik)は技法(Kunst, Art)である。いずれであれ、理論や政策の及ばざるところ(つまり、言葉という上限)と、臨界実験の失敗から陥っているところ(つまり、無という下限)への、二重の倫理的責任性が問われることになる。周辺世界のノイズをカットし、人間(主観性)に都合のいいデータだけを寄せ集めただけ(の知識社会学を含む、諸科学)では、叡智を極めたとはとても言えない。客観性の帽子を被っていても、被る人の主観性次第でデータは書き換えられるから、富と支配への野望が尽きない限り、「想定外だった」という言い訳が聞かれなくなることは先ずない。原発から30キロ内外の生活世界住民たちに、そういった言い訳は全く通用しない。死への覚悟性を言うにしても然り、これだけは個人の自由であり、誰にも強制は出来ない。長く住み慣れた土地を愛する人に、屋内退避の勧告や避難指示は過酷であるが、やむを得ない場合もある。諒解世界でのノイズの震源地は、差し当たりまた大抵は、リニアル(線形)を望まない人間自身(のエス、不安の余りマスクするヒトのゾルゲと思惑)に他ならない。この点で(諄いようだが、繰り返して言う)、ハイデガー(とその弟子・大島淑子)に学ぶこと大である。
Fazit: Die Kunst macht aus der Not eine Tugend. 
現時点で、風評被害ほど怖いものはない。不確かな情報をネタにしてあたかも確定した事実であるかのように、購買欲をそそる特ダネに仕立て我先にと一早に報道し、徒に「不安」を煽り立てるばかりのジャーナリズムには困ったものだ。私が日頃から口を酸っぱくして言うところの「社会言論」(世論)の批判的吟味と「一般社会学言論」の構築は、緊急を要する課題である。せめても、関東大震災の二の舞だけは防がなければならない。今後については二つの選択肢が有るのみ。一つには、生活世界の飲み水まで危険に晒す原発を、広島と長崎での被爆の体験を持つ日本が、殊更に必要とする理由がどこにあるのか、はなはだ疑問である。このさいに、原発を廃止して水力発電・火力発電へ「一歩後退」(Schritt zurück)することが、国家と国民の選択すべき賢明な途ではないかと思われる。或いは二つ目に、それでも科学革命の進歩を信じて、一連の変則性から学んで、難問(アポリア)を克服する新たな仮説が生まれるまで、辛抱強く待ち続けるかである。トーマス・クーン(『科学革命の構造』、99頁)に拠れば、危機は通常科学のルールの適用範囲を確かめさせるが、危機なしではニュートリノ発見に要する莫大な努力は説明不可能であったし、パリティー非保存の法則が提唱され検証されることもあり得なかった。ただ、それが科学史的に如何に重要であるとしても、被災者とは縁遠い話であることも事実であろう。
何はともあれ、波に攫われた生活世界の住民たちの叫びが、聞き届けられなければならない。事は、不足する物資の補給で済むことだろうか。利便性を満喫したい現代人の尽きない欲望(エス)を満足させるために、電力の需要が際限なく増える事態に備え、一律の計画停電で不公平な犠牲を強いるも避け難いというのであれば、快適さや利便性を犠牲にしてでも、飲み水や生活の安全性を優先して確保すべきではないのか。「万物のアルケー(始原)は水である」(ターレス)。澄んだ水か汚染した水のいずれであれ、その扱いは人間の尊厳性に係わる、基本的人権の要件であろう。
ところで、被災者(他者)のために自分を犠牲にするとは、目的合理的に(利権に絡む実体あるモノを)「捨てる、空にする」ことだ。でも、誰が何の「諒解」もなく自分(主観性の富)を捨て空にするだろうか。いずれ、21世紀に必要なアスケティズム(健全な禁欲主義、相互主観的節制論)について論じてみたい。考えて欲しい。「水と安全」は、ただでは手に入らない。今学期の主題に挙げた「美学的感性」に基づく対話的諒解の技法(Gesprächs-Kunst der Einverständnis)が必要とされる事由を考えて欲しい。差し当たり此処では原発の是非について、読者の皆様の意見をお伺いしたい。 

付記: 海外在住の方々のために、取りあえず現状の報告を兼ねて、現在鋭意書き込み中です。原発に関する新たな情報が入り次第、このブログ記事を改訂します。
追記: 最終的に、震災の名称が「東日本大震災」とされました(4月1日)。海洋汚染の原因が見つかりました。取水口に亀裂が生じ、そこから汚染水が海岸沿いに流出していたとのこと。コンクリート材を注入する試みが失敗に終わり、特殊の強力な樹脂を注入して汚染を防ぐ試みもうまくいかなったようです(4月2日)。いずれの原子炉も廃炉となる公算が高く、安全に廃炉とするまでには十数年の歳月が必要だと予測されています。震災後の復旧支援活動は、政府と市民たち自身の手により、活発に且つ整然と為されており、一部住民による不穏な動きは全く見られません(4月3日)。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2011 by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

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