2015年2月1日日曜日

イスラム詐称の恐怖政治をここで食い止めないと悔いが残る。でもどうやって?

後藤健二さんの悲報に接し、衷心より哀悼の意を表したい。       

                                 Photo Reuter
「目を閉じて、じっと我慢。怒ったら、怒鳴ったら、終わり。それは祈りに近い。憎むは人の業にあらず、裁きは神の領域。そう教えてくれたのはアラブの兄弟たちだった」。これは後藤健二さんが2010年9月7日に自身のツイッターアカウント(@kenjigotoip)で発信した言葉だ。2015年2月1日の午後4時現在で、すでに8000回を超える反響があり、今もツイッター上で拡散が続いていると、今朝の毎日新聞は報じている。2010年12月2日にも、「そう、取材現場に涙はいらない。ただ、ありのままを克明に記録し、人の愚かさや醜さ、理不尽さ、悲哀、命の危機を伝えることが使命だ。でも、つらいものはつらい。胸が締め付けられる。声に出して、自分に言い聞かせないとやってられない」と、ジャーナリストとしての使命感を率直に告白していた。このような素晴らしいアラブの仲間を、良心的なイスラム教徒が殺せるはずがない、そうではないか。
節分を前にした後藤さん殺害の悲報は、「イスラム国」を名乗るも実は「詐称」するだけの、黒ずくめの覆面がかち割れた一瞬である。一二年で鎮静化するだろうが、放っておくと第二第三の犠牲者が出よう。虚無化の嵐をここで食い止めておかないと、後々まで悔いが残る。カオスの勢力と交渉しないのは当然だとしても、暴虐の芽を早く潰さないと、後手に回れば鬼退治を仕損じる。子らの世代を危機に晒すことになろう。だから、何らかの仕方で欧米諸国が介入しても、ベトナム戦争の二の舞にはなるまいと考えるのは間違いの元。冷戦時代には、イデオロギーというそれなりに理解できる戦争の大義があった。しかし、残虐を究めるこの自称「イスラム国」勢力には「それ」さえない!「言論の自由」を理解する良心の一欠片もない。アメリカの中東政策の失政による「鬼子」だから、「泥沼化」は避けられない。
イスラム教徒たちにとって事態はもっと深刻で、神の裁きの執行人を自認して憚らず、形振り構わぬその暴虐は「詐称」に等しく、預言者のプライドを云々する風刺的表現のレベルを遥かに超えていよう。それでも良心を信じ面子にかけて、イスラム法学者たちの奮起を促したい。不用意な切っ掛けを造った日本の阿部政権と、人権の優先順位を巡りもたつくばかりのヨルダン政府にも、同様の猛省を促したい。
Shigfried Mayer(宮村重徳), copyrights © all reserved 2015, the Institute for the Interpretative Sociology Tokyo