2011年11月4日金曜日

君も輝きたいの?どうやって?-存在の明暗技法

Strahlen willst du. Wie aber ? - Über die Daseins-Kunst mit Licht und Schatten
【11月10日(木)更新、一部コンテンツの差し替え、「考えるヒント」補強】
おや、沈んでるね、就職活動がうまくいってないから?それでも君は輝きたい、んでしょう?何を輝かせるの?どうやって?誰であれ、いつまでも落ち込んだまま暗い顔している(niedergeschlagen sein)のは嫌だからね。通常ドイツ語ではシュトラーレン(strahlen、光るものを「放射する」)を使って、「彼は輝いている、目を輝かせている」(Er strahlt mit den Augen.)、またはアオフクレーレンを再帰的に用いて、「彼女の顔は、喜びのあまり輝いている」(Ihr Gesicht klärt sich vor Freude auf.)と表現されます。
後者の実例は、自分を啓蒙・啓発する、それまでの無知・蒙昧を自ら「啓き諭す・解き明かす」(sich aufklären)意味で、啓蒙主義運動のパロールにまで遡ります。アオフクレーレン(啓蒙する)とは、自己啓示する超自然的な神の光を否定し、自分の内にある「自然の光」(lumen naturae)を輝かせることです。曇り濁った悟性を「澄ます」という意味もあります。カントが「自分の悟性を使え」と言った背景には、自然の光に照らし合わせて自らの悟性(理解力)に目覚めた近代人が、その後正しい悟性使用を怠って陥っている、法的にも社会的にも未熟な無責任状態の事実関係が念頭にありました。
カントが言う「未成年状態」(Mündigkeit)を、私は常々社会言論上の「未熟さ」と関連付けて言い換えるようにしています。学生諸君も、耳にタコができるくらい聞いてうんざりしていることでしょうね(笑)。啓蒙主義の精神を口にする・唱えるだけで実は何もしない、革命後の社会的無策を弁解し、言論の自由を「無為」の口実にしていた人々が多くいたからです。折角の高価なメガネも、レンズが汚れ曇った状態では使い物になりませんね。かえって、見えるものまで曇らせるから。だから、レンズ磨きをスピノザが天職(Beruf)にしたのかどうかは不明ですが。
  カントの場合は、親離れの「成人宣言」(Mündigkeits-aufklärung)したのに自立できず、相変わらず「後見人」(聖職者、親や教師)に依存したままの(言葉を鵜呑みにしたままで、自分で味わい咀嚼していない、判断も他人任せで「自分の悟性を使用しない」)自称啓蒙主義者たちの言行不一致を手厳しく批判していますので、やはり広義の意味で「社会言論」(Sozial-Rede)が問題となっています。理性批判に於いても然り、カントの「理性」概念は、プラグマーティッシュな「言語活動」の含みを持っていることを忘れずに。
さて、学生諸君が自分も輝きたいと思うとき、何を輝かせるのか、どうやってそれが可能なのかをしっかりと考えてみる必要があります。輝かせようにも、光るモノが自分の内にないとあれば、如何ともし難い。面の上辺だけ化粧したり、自分のマスクをいくら上塗りしたりしても、骨折り損のくたびれもうけです(面接官はすでにお見通し、目が澄んでいるか濁っているかですぐわかる。「目は体の明かり・灯火」と言うとおり、マタイ5:15)。
「自然法」と共に「内なる自然」(「自然の精神」、シェリング)を発見したのは、誇り高き近代人(欧州人)の功績でしたが、自然にない(放射線状に光る)モノ造りで、今や抜き差しならない危機的状況に陥っていますね。自然と社会に於いて働くモノとヒトが、如何なる第三の「解釈項」(パース)を必要としているか、よく考えてみて下さい。
ハイデガーが『芸術作品の根源』で芸術家・作品・芸術という三つ巴の関係(「解釈学的循環」)で何を言いたかったのか、スピノザの衝撃的な命題「神もしくは自然」、かのドゥルーズを虜にしたその幾何学的神存在の証明とは、思索のスタイルを異にする言い方ですが、ハイデガーがなぜ自然に代えて「大地」を語るのか、なぜ「存在」の真理性に関する逆説的命題(真理は「覆われの無さ」、「不覆蔵性」に有る)に敢えて拘ったのか、自分の悟性を使ってよく考えてみること、これは学生諸君への宿題です。「存在の忘却」を大義名分とした言い訳は無用、杓子定規の回答は無効ですよ。例えば、「あれはバロックの哲学だから」とか、「ハイデガーはスピノザを避けている」(デリダ)とか言うようでは、何も言ったことにならない。その実、何も始まらないからです。

考えるヒント①:「我思う」存在者が人格属性を持つのは内部であるか外部であるか、働くモノの表象は一見して非人格的です。これを理解するには、存在の「明暗技法」(Zeichnende Kunst mit Licht und Schatten)が必要です。

考えるヒント②:「目はからだの明かり」です(上記)。5~6年前でしたか、大島淑子先生に獨協大学に来ていただいてお話をしていただいたことがあります。そのときに、普段は表情一つ変えない物静かな受講生の一人(M子さん)が、一際目を丸くし驚嘆した眼差し(staunender Blick)で、瞬きもせずに凝視(anstarren)していた様子を、未だに忘れることが出来ません。あれです、あの目の輝きがヒントです。何を観たからでしょうか?何が彼女(の目)をこうも輝かせたのでしょうね?それを知るには、存在の「遠近画法」(Perspektivische Darstellung mit Nähe und Fern)が必要です。

考えるヒント③:神の栄光(シェキナー)を見た「モーセの顔は輝いていた」(出エジプト記34章29節以下)。眩しいので、人々はモーセの顔に「覆い」をかけたと言います。ヘブライ語で「輝く」はカーラン、再帰的に表現するとマケリン、ずばり「角(ケレン)を持つ」ことです。祭壇の四隅には、神の栄光を表す角が彫られていることで分かります。「角を持つ」と言えば、日本の花嫁は文金高島田の綿帽子を頭に被り、「角隠し」していますね。俗説では、怒りを象徴する角を隠すことで柔順でしとやかな妻となることへの決意を表しているとか、嫉妬に狂うと鬼になると言う女性の器質を言い表したものだとか。江戸後期から明治の初期に始まるこの風習の背後に何が、女性自身を「輝かせるモノ」が何であったか、興味の尽きないところです。自分を輝かせるモノに覆いが必要という話ですね、自分らしさ・愛らしさの度が過ぎて、神々しい「角」が生えていないかどうか、私たちも鏡を見て確かめる必要がありそうです。

 (残りのヒントは、手渡し済みの「講義の栞」でご参照ください。ドイツ語の知識有る無しに拘わらず、聴講生大歓迎。文中で「未成年状態」について説明した語源ルート解明の部分を、「独逸語研究」のページに移しました)

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