自然は美しい。しかし、時に民族単位の集団で人のすることは醜い。争い殺し合うのはなぜか。民族の利害を超えた「崇高なる精神」(ヌース)の探究を見失ったせいではないか。
半田広宣のヌーソロジー(NOOSOLOGY)は没概念、用をなさない。基本定式は、ヌース + ロゴス=ヌーロジー(NOOS+LOGOS=NOOLOGY)であり、ヌーソロジーとはならない。ステムはヌー、インマヌエル・カントの『理論理性批判』でもヌーロジー(NOOLOGIE /de)である。『聖なるもの』で知られる宗教学者ルドルフ・オットーのヌーメン(Numen)やヌミノーゼ(Numinose)でわかるように、連辞でない限り、術語形成上母音の挿入はあり得ない。単綴りでは不可、端末子音のスは脱落する。
ヌーロジーのコンセプトは(NOOLOGIE, de)、ドイツの哲学者ルドルフ・オイケン(Rudolf Eucken)によって、「世界と霊魂を包括する精神」(ヌース)として定義されたが、ヌーロジーの系譜はカントの定言命法にまで遡る。「いざ賢明に、自分の悟性(ヌース)を使う勇気を持て!」(Sapere Aude: Habe Mut, eigenen Verstandes zu bedienen. 『啓蒙とは何か』、私訳)問題は、その悟性をいかに行使するか。
一見意外な展開に見えるが、そのベースを合理化し、愛と知と力が渦巻く緊張の場へと理解を深め、無意識の流れを見える化する、アンドレアス・ボッパルト(Andreas Boppalt)の情報科学的手法(メタモルフォロジー)に受け継がれている。今日支配的な、物質と精神の歪んだ世界構造を「脱構築する」こと(deconstruction)が目標とされる。ライプニッツ研究に始まり、ナーガールジュナの空論(ダルマの教え)に着目、フィールドは多岐にわたり、苦を和らげる知のアスペクトは、「知を力」とする知識社会学に相対する。
ただ、ボッパルトには手詰まり感を否めない。他方、怪しげなチャネリングの話は論外として、半田の関心は一見奥深く、物質と精神の抜本的見直しを含め、三次元を超える展望が視野にあるようにも。とはいえ、ヌーロジーの基本定義と定式に沿ってこそ正しく展開可能。サスティナビリティーの大原則である。比較研究から差別化するのが望ましい。