2018年6月9日土曜日

宗教と科学に未来はあるか、禅キリスト教の可能性を問う

宗教と科学に未来はあるのか。ホワイトヘッドの警句が参考になる。「形式論理学においては、矛盾は敗北を示すものである。しかし実質的な知識の進化においては、矛盾は勝利に向かって進む第一歩を表す。このことは、さまざまの意見の対立をできるかぎり許容すべしとする、ひとつの大きな理由である。この寛容の義務は、「両(ふた)つながら収穫(かりいれ)まで育つに任せよ」という言葉に要約し尽くされている。キリスト教徒たちが最高の権威をもったこの教えに則って行動できなかったのは、宗教史上の不思議の一つである。」(『科学と近代世界』、第十二章)。「宗教も科学も同じ精神で変化というものに対決しえないかぎり、昔日の力を回復しないだろう。」[1] 
変化の無常性に対する態度、無頓着にも見える仏教徒たちの行動についても同じことが言えるかどうか。いずれにせよ、宗教的神秘体験について科学的に真偽をはっきりさせる仕方は寛容性を欠くことになりかねない。動態禅の要は変化への柔軟な対応性にあり、即座の結論は控え常にオープンにしておきたい。禅学の可能性については、最近見た限りでは論点のわかりやすさと正確さにおいて「中野禅塾」の書き込みが注目に値する。中野紀和男氏は、名古屋大学生命農学研究科の退官教授、http://nakano-zenjuku.com/

Shigfried Mayer(宮村重徳)、copyright © all reserved, July 2018, the Institute for the Interpretative Sociology(理解社会学研究所)
 



[1] アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド『科学と近代世界』、上田泰司・村上至孝訳、著作集第六巻、二四九頁以下。

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