2012年2月28日火曜日

自由なのに苦しむわけは?(ヘルプ・デスク)

Wieso leidest du, trotz der Freiheit? (Helpdesk) 
 地震や津波のような自然災害は別として、日本は自由が保証された平和な国です。今では、昔と違ってお家のため・お国のためにといった大義名分で、犠牲を強いられることは一切ありませんね。何処で学ぼうとどの様な職場で働こうと、神を信じようと信じまいと、すべてが諸君の自由であり、自分の選択意志に任されています。それなのに、まるで自由がないかのように、就職難で苦しむのはなぜでしょうか。考えてみましょう。
 仕事が見つからない諸君に問いたい。何をしたいの?何を目指しているの?自分の人生の目標が定まらないと、不要なものに足を引きづられ泥沼に足を取られるのは必然。目標は在るものではなく造るもの、差し当たりこれぞと思うものもマークして、尋ね求めてご覧なさい。あれこれと物色するのもいいでしょうが、決めるときは決める!なかなか決まらない人は、ベターな方に賭けてみるのです。ゲーテの言葉に、「制約することの中で、マイスターは立ち現れる。法が、法だけが君たちに自由を与える」と。法というのは、社会の約束事です。卒論のテーマが決まらず迷っていたときに、留学先の指導教授から耳にタコができるほどこの言葉を聴かされた記憶があります。
 これは卒論のテーマに限った話ではありません。就職先の選択に悩むときにも、就職後の困難を乗り切るときにも必要となります。何故かというと、目的意識がはっきりした人ほど、社会や会社は評価してくれるからです。ヴェーバーが言うとおり、人間のする行為の中で、目的合理性に基づく行為が一番明証的だからです。目標がはっきりすれば、余計なものは自然と剥げ落ちるでしょう。いわゆる節約志向もその類で、あらゆる経済活動も余計なものを捨てて、自分にとって「無くてならない只一つのもの」を追求することになります。みんなと同じスマホなくったって、ほら十分生きていけるでしょう(笑)。
 それでも決まらない諸君に言いたい。最後に残るは人の尊厳に係わること、自分のプライドや名誉を捨てて、物を摑む手と歩く足が在れば十分なので、とにかく定収入が見込める就職先を決めることです。非正規の派遣労働だけは止めた方がいい。後で苦しみます。電子技術は盗まれるものですが、生きる技法・美学的技巧は盗んでも使いようがない、真似が出来ないのです。真似が出来ないのが人生の美学的センス、仕事に就いたら、君でしかできない結果を出してはっとさせ、なるほどと思わせるだけでいい。結果は後から付いてきます。
 それでもうまくいかない君へ、最後の一言。自分の壁となって働くモノから目を離さず、しっかりと見つめこれと対峙しなさい。壁となって立ちはだかるモノこそ、差し当たり君自身の明日(不可能な扉)を開く可能性(チャンス)だからです。七転び八起きのダルマの精神で、自分のチャンスを見逃さない、鷲づかみに摑んでください。九回失敗してもいい、形振り構わず十度目に受かればいい。自分の失敗から学ぶ気持ちさえあれば、怖いものなど何一つ有りません。壁っていうのはね不思議ですね、面と向かってると心が落ち着く、意外と安心するんですよね。

Shigfried Mayer, opyright all reserved 2012, 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年2月14日火曜日

忘れられた栞:『自己のテクノロジー』、フーコー回想録

Vergessene "Technologie des Selbst", Lesezeichen aus dem Foucaults Seminar
【2月16日(木)更新】
  フーコーセミナーの記録、『自己のテクノロジー』(岩波現代文庫)は、8年前(2004年)に買って読んだ記憶がありますが、いつの時代であれトラウマ(悪夢)のように、壁となって立ちはだかる「自己」なるモノへの係わり方・迫り方を教える点で、実に刺激的な書物ですね。二流・三流の参考書などゴミ箱に投げ捨てて、このようなリソース(生の討議資料)を熟読することが望ましい。ほら、憎まれ口を叩かれたあのフロイトが、生き生きと語り始めます。それでも、フーコーを読むくらいなら、むしろフロイトを読んで欲しい。意識上(表層)の葛藤は、大抵は無意識(深層)の中に原因となるヒントがあります。またデカルトを論じる余裕があったら、ぜひスピノザを論じて欲しい。気張らず自然体で自分と向き合えるようになります。私は最近、心理主義の立場で物を考えない、現象学的社会学や理解社会学に関心があるので、フロイトやフーコーの書物は長い間放置され、本棚の片隅にほこりを被っていました(笑)。
 久しぶりに手にとって再読してみると、フーコーが4世紀のシリア・パレスティナ修道会の瞑想法を参照している箇所に、自分の赤ペンが入っていることに気づき、懐かしい思いで一杯になりました。これを読む切っ掛けになったのは、講演の冒頭でも分かるように、禁欲主義に関するフーコーのヴェーバー解釈になっていたからです。これが後に、史的ダルマ論への一傍証を提供することになります。でもね、もて囃される刺激的なフーコーのそれより、学生諸君にはフロイトの古典『精神分析入門』の方をお薦めします。
 古典は原石です。古典の源流に遡れば遡るほど、忘れられた原風景がよりいっそう鮮やかに見えてくるでしょう。見た目に煌びやかな宝玉を都会に探し回るより、無意識の荒野を散策して原石を見つけ、鈍い原石の輝きを自分の目で味わうことが大事です。(スマートフォンに代表される)便利さを掃き捨てて、人より少し不便を感じるくらいの立場に身を置かないと、真理探究のハングリー精神は生じません。
 ひとたび自分史の分水嶺に立ち入ろうとすると、生身の手足は傷だらけになるのを覚悟する必要があるでしょう。当然、傷に付けるメンソレータムと絆創膏は必須ですね。特に峠付近は風が強く寒いから、杖とマフラーをお忘れなく。自分の峠までは獣道、何が潜んでいるかわからないからね、杖は「自己のテクノロジー」のアイテムとして欠かせません。携帯は使用不可、「影の国」には電波が届きません(笑)。


Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku