2012年1月26日木曜日

平常底で「日々是好日」、壁観九年の節目迎え

Jeden Tag sei euch gut, seelenruhig etwas zu lesen, was da ist.   
【2月9日(木)更新、付記追加、データ補正】
 最近は投稿が遅れ気味で、読者の皆様にはご迷惑をおかけしています。多少言い訳になりますが、禅思想の集大成『碧巌録』を傍らにして、ダルマの『二入四行論』に読み耽り、そのドイツ語訳に励み専心する毎日、ですので、肝心のブログにはなかなか手が回りません。前者が完成品であるのに対して、こちらは文章も粗悪で読みづらい、荒削りで未完の作品(語録・断片集の類)ですが、これには禅の根源体験を彷彿とさせる、原石の輝きがあります。(ドイツ語の知識のあるなしに拘わらず、関心のある方は「史的ダルマ研究会」へお越しください。歓迎します)
 日頃から学生たちには、原書のみ読むように注意し、翻訳書や解説書など参照するのは以ての外だと厳しく指示している立場からして、参考書の類は自分では読みもしませんし、人にもお薦めしていません。それでも最近は、読書会で読み合わせる必要性から、わたし自身もやむを得ず買い求めて読んだものが二冊ほどあります。
 言語派社会学の橋爪大三郎氏と大澤真幸氏の対話本『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書)と、大澤氏の『〈世界史〉の哲学 古代編』(講談社)の二冊です。興味深く読ませていただきました。問題の所在をずばり指摘される点、常識的な理解を覆しぐさりと急所をつく点で、二人は共通しています。
 橋爪先生は、抜け目のない緻密な論理で読者を圧倒し、なるほどと納得させてくれますが、ヴィトゲンシュタイン流のゲーム理論で、主語論理が通じない歌詠み三昧の述語論的世界、東洋的無に親しむ世界の社会問題がすべてうまく解決するのかどうか、最後まで疑問が残りました。
 他方大澤先生の哲学本は、西洋哲学史を縦断する知識と論争史を前提としており、読んでも初心者には皆目分からないのではと思われます。ミステリーのキリスト殺害事件(キリストの死の残響)から、資本主義社会の成り立ちとその陥穽をつく仕方は他に例が無く、マルクスを引き合いに出して論じる点でも刺激的で圧巻ですが、様々な論者の意見がモザイク模様に鏤められており、たとえ一通り読めても筋書き通り要点を理解することは、学生たちや一般人には困難ではないでしょうか。話をあちこち関連づけないで、もっと論議の的を絞り分かりやすい展開にしないと、読む方の負担が大きく辛いところです。
「日々是好日」は、”Zen - anders denken? Zugleich ueber Zen und Heidegger” (『禅-別様に考える?禅とハイデガーの一試論』、大島淑子) の裏表紙にある私への贈り言葉、いつまた直下型の大地震が関東平野で起きるかわからない、絶えず不安と戦きに苛まれる中で、「平常底」で壁観するにも読書三昧してもらうためにも、この本のように誰もが理解できる言葉で語らないと、真意が伝わらず心が通じません。知識や閃きを披露することが自己目的でない限りではね、大澤さん、聞いてますか?
付記: 副題にある「壁観九年の節目」とは、史的アルマの自身のケースはもちろんのこと、それを真剣に考えるようになった時点から数えて、つまりわたし自身が壁観を始めた2003年から数えて今年は節目の九年目という意味です。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku

2012年1月3日火曜日

年頭所感:「絆」で温もる、生活世界の原風景を

Wiederentdeckung einer Ur-landschaft, wo man in den familiaeren Banden leben kann.
【1月25日(水)更新】
新年のご挨拶を申し上げます。明けまして「おめでとう」と言うことがひどく憚れるほど、昨年2011年は深い傷跡を東北の方々にもたらしました。被災者を初め大半の国民が、家族の絆の大切さに改めて気づき、その点で思いを一つにしたのではないでしょうか。長い間、日本社会が家庭崩壊や学級崩壊という人間デフレで苦しんだ果ての震災体験、社会の基本が身近な友であり家族であること、失われて初めて身近な存在者の「絆」(band)の大事さが忘れがたく身にしみて、私たち国民の心を激しく揺さぶりました。
 そこで、今年の年頭所感は、私が学生だった頃の愛読書、フロイトと肩を並べる異彩の精神分析学者、「言語療法」(ロゴセラピー)で知られる、ヴィクトール・エミール・フランクルの言葉をお贈りします。以下はすべて私訳です。
私たちを襲う過酷な「宿命は、大地のように人間に属しています。人間は重力によって大地に縛り付けられています。しかし、それ(大地の縛り)なくしては歩行は不可能なのです。私たちが立っている大地に対するのと同様に、宿命と向き合わなければなりませんが、これを自由に対する私たちの跳躍台としなければならないのです。宿命なき自由は不可能です。(私たちの)自由は、宿命に対する自由という仕方でのみありえます。」(『死と愛』)。アウシュヴィッツという強制収容所の壁を体験した人の言葉、ずしりと重たいですね。過酷な宿命に対する仕方で、つまり彼が重視する「態度価値」乃至行為価値としてのみ、自由があり得るのだという主張には、強い説得力がありますね。その意味で、邦訳の「運命」でなく、自由に余地を残す「宿命」が正解、訳語としてこちらが相応しいと思われます。
「およそ、生きること自体に意味があるとすれば、苦しむことにも意味があるはずです。苦しむこともまた生きることの一部であるなら、宿命も死ぬことも生きることの一部でしょう。苦悩し死ぬことがあってこそ、人間という存在は、初めて完全なものになるのです。」(『夜と霧』)。この言葉には、愛する妻を思い彼女との「絆」を獄中から再確認することで、どんな苦しみにも耐える意味を見いだし、決して諦めない、壁の彼方に自由を見届ける前向きな気持ち、容赦なく襲いかかる苦難に負けず怯まず、「それでもなお、生きることに然り(ヤー)と言う」一貫した「態度価値」、宿命に押しつぶされそうな青息吐息の人の言葉でない、不思議なくらい熱い命の息づかいが満ち溢れていますね。
 年頭に当たり、今一度被災者の思いを自分のこととして受け止め、友や家族の絆を、存在の温もりとして、一緒に取り戻したい。「絆のある生活世界の原風景」を描き直す一年としたいと存じます。「家族社会学」については、いずれ時を見計らって論じることにします。改めて、2012年が「絆」を元手に(自分がでなく、他の人が種を蒔いた、その)「実りに与る」体験の元年、飛躍の年となりますよう、皆様のご健勝を心より願いつつ、新年の挨拶といたします。

Shigfried Mayer, copyright all reserved 2012, by 宮村重徳, the Institute for Rikaishakaigaku